琉球の偉人は苦しい時代をどう乗り越えた? 蔡温と羽地朝秀に学ぶ
- 2022/2/3
- 社会
国都は名護だったかもしれない?
数々の施策を実施した蔡温だったが、尚敬王との信頼関係を盾にここまで徹底した路線で急速に大改革を推し進めれば、ワンマン過ぎると不満を持つ人間が出てきてもおかしくはない。
有能で和文学にも秀でていた平敷屋朝敏は、蔡温の政策に不満を持ち薩摩在番奉行に蔡温の批判書を投書したとの疑いで捕らえられ、安謝の処刑場で磔刑に処された。
また、旧慣支持の一派は蔡温の政策に反発して名護に遷都することで新しい国造りを企んだ。その際名護湾と羽地内海を運河で結び航路を開くとの噂まで持ち上がったという。
そこで蔡温は「琉球は国頭、中頭、島尻の三つが一つとなってはじめて一体の龍なのである。陸地を切り離してしまえば龍脈が絶たれ龍は力を失ってしまう。断じてそのようなことは許されない」という内容の文を刻んだ石碑を名護の入り口に建立した。
それがひんぷんガジュマルの根元に建つ「三府龍脈碑」である。
この石碑がひんぷんのようにも見えたことからヒンプンシーと呼ばれ、ヒンプンシーの隣に建つガジュマルなので「ひんぷんガジュマル」と呼ばれるようになったのだ。
このほかにも県内には蔡温に関わる名称がいくつもある。蔡温スクエア、蔡温橋、蔡温ストリート、かつては蔡温湯なる銭湯も牧志にあったようだ。
その昔蔡温は「政道とは朽ちた縄で馬を走らせるようなものだ」と語った。苦しい時代に全ての民の理解を得るのは難しい。しかしその中においてこそブレないリーダーシップを発揮し、しがらみを断ち切り信念を持って民を引っ張り続ける蔡温や羽地朝秀のような政治家が現れてほしいものだ。