琉球の偉人は苦しい時代をどう乗り越えた? 蔡温と羽地朝秀に学ぶ
- 2022/2/3
- 社会
国王の教育者から国を動かす政治家へ
蔡温は朝秀が亡くなった後、1682年に久米村(琉球のチャイナタウン)で生まれた。蔡温の父・蔡鐸は久米村きっての有力者だった。蔡鐸は羽地朝秀が編纂した琉球国初の正史『中山世鑑』を漢訳し『中山正譜・蔡鐸本』を完成させ、蔡温も後にその中山正譜をさらに修正、加筆し『中山正譜・蔡温本』を完成させている。
蔡温は若くして才能に恵まれ19歳で王府の通事(通訳)に任命された。さらに21歳で教師となり、27歳には在留通事役として清へ渡っている。30歳になると尚益王の世子である尚敬の家庭教師に抜擢され、その勢いのまま尚敬が14歳という若さで王位に就くと、蔡温は32歳で「国師」に任命された。国師とは「王の師」であり、その後蔡温の存在が王政にも大きな影響を与えていったことは容易に想像できる。
羽地朝秀が政権へ至る道のりと少し共通点も感じるが、ここから蔡温の剛腕唸る王国大改革が始まるのだ。基本的には朝秀の質素倹約路線を受け継ぎながら、自ら習得した風水の知識もふんだんに発揮し大胆な政策を次々と打ち立て実行していく。
以下簡単に紹介しよう。
◆農業政策
農作業に関する基礎知識や心得など農業のいろはをまとめた「農務帳」を作成し農民に与え、作物の生産性を大きく向上させた。また、年貢の滞納を防ぐために各ムラ内で共同組合「ユヒ組」を結成させ、相互扶助を推進させるとともに不正が起きないようお互いの監視役も努めさせた。実はこれが「ユイマール」の語源である。
◆林業政策
国内で建築や造船、薪などの木材需要が高まる中、伐採により森林の衰退が危ぶまれていた。そこで蔡温は山林の管理を徹底させ、植林にも力を入れた。現在も辺戸に蔡温松並木があり、今帰仁の仲原にも蔡温松がある。今に残る緑豊かなヤンバルの森も蔡温の功績あってなのかもしれない。
◆治水政策
名護市羽地は昔から米どころとして有名だが、ここにも蔡温の功績が大きく関わっている。羽地大川の豊かな水源と肥沃な土地が豊かな米を育んでいたが、大川の流れは複雑に入り組んでおり大雨の度に氾濫し水田が荒らされていた。そこで蔡温は中国で学んだ風水を基に、気の流れを読みながら水流を人工的に付け替え氾濫を抑えることに成功した。
この改修工事の偉業を讃えて、羽地の田井等集落に改決羽地川碑記が建っている。また、羽地ダムのダム湖は「蔡温あけみお湖」と名付けられている。