好きこそ物の上手なれ!プロダンサーからスタジオ経営YURIさん

 

 転機は高校2年生の時でした。県内の高校に通っていたYURIさんでしたが、進路を考えたときに「やっぱりどうしてもダンスがしたい!」と諦めきれない想いが爆発し、両親を必死に説得、ダンス部が有名な山梨県の高校に編入することにしました。

 そこから毎日ダンス漬けの日々が始まりました。数ヶ月に一度は東京に行って様々な講師のワークショップを受けるなど、目標に向けて突き進みます。高校卒業後は、ダンスの専門学校に2年間通い、ジャズダンスやヒップホップダンス、バレエを使ったダンスなど様々なジャンルのダンスを吸収していきました。

 「周りと比べて遅いですが、私は17歳でやっとダンスを始めることが出来ました。最初はアイソレーション(ダンスの基礎の動き)すら出来なくて、専門学校では技術も知識もビリだから、少し恥ずかしい話ですが、毎日本当に泣きながら一人練習をしていたんです(笑)」と笑いながら話してくれるYURIさんですが、その笑顔の向こうには血の滲むような努力が積み重ねられていました。

怪我で踊れなくなった日々も経験

 専門学校を卒業後は、有名アイドルの振り付けアシスタントや、メジャーアーティストのバックダンサーなどで活躍しますが、23歳の頃、ダンスによる腰の使いすぎで怪我をしてしまい、現役のダンサーとして踊ることが難しくなってしまいます。

 「毎日ダンスが出来る事が嬉しくて、練習もたくさんしていました。そうしたら腰を故障してしまって…。入っている仕事はこなさなければならないので、腰に注射を打ちながら、メジャーアーティストのバックダンサーを武道館で務めたりもしました」

 大好きな事に全力で取り組みたいのに、出来ないもどかしい日々を過ごし、沖縄に帰ってくる事になります。

周りの勧めでスタートしたダンススタジオ

 沖縄に帰ってきてからは、ダンスから離れて様々な仕事をこなしていたYURIさん。プールの先生や事務員、飲食店で働いていた事もありました。

 そんな日々の中で長女を出産し、子どもを育てる為にも「仕事を頑張らなきゃ」とダンスではない別の仕事に精を出していましたが、友人や仲間にこんな言葉をかけられます。「ダンススタジオをしてみたら?」

 とは言っても、すぐに生徒が集まる保証もなく、育児しながらのスタジオ立ち上げなので、まずは自身の出身地・南風原町の児童館やカルチャースクールで教え始める事からスタートしました。同時に経営者となったYURIさん。試行錯誤の中で、ポスティングや口コミの効果で、生徒数も右肩上がりで増えてきました。こうして自身のダンススタジオ「DANCE STUDIO LUANA」を立ち上げる事に成功しました。

「娘を思うと自然と頑張れた」子育てとの両立

 YURIさんがダンススタジオの立ち上げに力を注ぐことができたのは、娘さんの存在があったからでした。

Print Friendly, PDF & Email
次ページ:
1

2

3

関連記事

おすすめ記事

  1.  サッカーJ3のFC琉球が、第2次金鍾成(キン・ジョンソン)監督体制下の初陣を白星で飾った…
  2. 今季から琉球ゴールデンキングスに加入したアレックス・カーク(左から2人目)やヴィック・ローら=16…
  3.  FC琉球の監督が、また代わった。  サッカーJ3で20チーム中18位に沈む琉球は1…
  4. 戦前に首里城正殿前に設置されていたバスケットボールゴールを再現した首里高校の生徒ら=8月27日、那…
  5.  8月12日、浦添市のアイム・ユニバースてだこホール市民交流室は熱気が渦巻いていた。ステー…

特集記事

  1. 再びFC琉球の指揮を執ることになり、トレーニング中に選手たちに指示を送る金鍾成監督=19日、東風平…
  2. ヴィック・ロー(中央)の入団会見で記念撮影に応じる琉球ゴールデンキングスの(左から)安永淳一GM、…
  3. 沖縄県庁  沖縄県は、地域の緊張を和らげようと、4月から「地域外交室」を設置し、照屋義実副知…
ページ上部へ戻る ページ下部へ移動 ホームへ戻る 前の記事へ 次の記事へ