空手と江戸上りとの推論 沖縄空手の世界⑧

 
1872年の慶賀使節団(喜屋武朝扶は前列右端)

 琉球の歴史に江戸上り(えどのぼり)が知られています。薩摩による琉球侵攻以降、幕末までに18回に渡り行われました。将軍への拝謁を目的に琉球から江戸へと船と陸路で往復します。

 飛行機で行ける現代と違い、片道約2000キロの旅路を2か月~半年ほどかけての往復、約一年がかりの行程でした。薩摩藩と合流して鹿児島、瀬戸内、大阪、美濃路、東海道を経て江戸に入るという行程を取り、琉球使節の江戸参府といわれていました。

 行われるタイミングとしては江戸の徳川将軍や琉球の尚国王が代替わりの際ということになります。将軍が代わった際の使者は慶賀使(賀慶使)、国王が代わった際の使者は謝恩使(恩謝使)といいました。

 はじまりは1634年の尚豊王就任の謝恩使で、最後は1850年の尚泰王就任の謝恩使です。使節団は100~200名の団体で身分の高い士族で、王子や親方、三司官や親雲上、演奏や舞踊を披露する楽童子といわれた少年たちでした。

 琉球を支配する薩摩藩、琉球の使節の来訪を受ける幕府、それぞれの権威を道中でアピールすることが大きな目的でしたが、鎖国時代、道中の琉球人は中国風の様相で日本とは違う文化的意味合いを現わしていました。後年の江戸上りでは、「琉球人行列附」という琉球使節団の情報を記した木版刷り物も作られ、人々は行列見物を楽しんだようです。歴史的には琉球と日本の文化交流行事としてその意義を位置づけされています。

1842年の江戸上り

江戸上りに参加した空手家

 今回、空手を専門とする記事として、この江戸上りに空手家が本土に渡り江戸に行っていた可能性を考えて探りたいと思います。今まで、空手と江戸上りとの兼ね合いは空手の文献を始め見たことがなく筆者のテーマとしています。

 この時代では空手はまだ存在せず空手の源流である手(ティー)の時代です。結論からいうと、空手家(手の使い手)が江戸上りに参加していました。資料として残されているものは少ないですが、分かっている範囲でご紹介します。

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