空手と江戸上りとの推論 沖縄空手の世界⑧
- 2021/2/27
- エンタメ・スポーツ
江戸上りに参加した空手家として、比嘉金松(1790-1870)が挙げられます。尚泰王時、1850年の18回目の時です。比嘉が60歳の頃になります。護衛としての参加でした。比嘉親雲上金松、マチューヒジャーといわれており棒術が得意であった。
そして、王府の役人であった武術家・金城真三良(1834-1916)も二度に渡り江戸上りしています。金城大筑ともいわれており、大筑という警官にあたる職を王府でしていました。特に武器術のサイ術に長けていたということです。当時の琉球の警察官は警備にサイを使用することが多々あったようです。
金城真三良は尚育王・尚泰王時の江戸上りに参加。1842年の17回目、1850年の18回目の時です。金城が8歳、20歳の頃になります。二度目は先の比嘉金松と同行したことになります。晩年は首里で古物商を営んでいたということで、空手の古書を扱ったことがあるのか興味を惹かれます。金城の最後の弟子であった喜納昌盛(1882-1981)はサイ、棒術、空手の型35種を金城から伝授されました。
世は明治となり、1872年に明治時代に入ると、維新の慶賀使として37人が琉球から上京していますが、その中に喜屋武朝扶という琉球王府の高官がいました。沖縄空手に通じている人であればその名を知られる喜屋武朝徳の実父です。
喜屋武朝扶は幕末期の手(ティー)の首里手中興の祖である松村宗棍(まつむら そうこん)の弟子です。松村宗棍は琉球王府書記官であり二人は同じ琉球王府の役人同志でした。尚泰王が琉球王国の王から琉球藩の藩王とされて、東京にて華族に宣告された歴史の出来事に喜屋武朝扶は立合うことになります。
廃藩置県、琉球処分にあたり喜屋武朝扶は政治的な交渉に従事して、1879年に上京した尚泰王と東京で過ごすことになります。そして、実子の喜屋武朝徳も上京させて東京で生活することになります。