琉球の川シリーズ① 琉球きっての政治家「蔡温」と「安里川」
- 2021/2/14
- 社会
大氾濫後に川幅を広げた親水公園
この親水公園の役割というのは、実はその見た目のカッコよさの何十倍もの重要性を持っており、もしもこの公園が完成していなければ、未だ安里川エリアは大きな氾濫被害に悩まされ続けていたことだろう。我々の世代にもまだ記憶の新しい、2007年の集中豪雨。安里川の大氾濫により、国際通りも含めた安里近辺の施設や店舗は大打撃を受けた。
もともと安里一帯の安里川水路は川規模の割に細く、しかも急カーブ続きで大雨になる度水の勢いを抑えきれず、氾濫してしまっていたのだ。それ故、近代になって洪水防止を目的に安里川上流に金城ダム、そして安里川に合流する真嘉比川上流にも真嘉比遊水池が整備された。しかし2007年の安里川大氾濫は、その双方の整備後に起こってしまったのだ。
そこで改めて、川の存在自体を盛り込んだ都市開発が計画され、川の流れ自体を人的に付け替えてしまい、より緩やかなカーブで流れるように、さらに川幅を大幅に広げて完成したのが、今の安里川親水公園内の安里川であるのだ。
しかもこの公園、ただカッコいいだけではなく、細部にも粋な計らいが見て取れる。例えば堤防の役割となる川の側壁には、琉球時代のグスク城壁にも見られるような琉球石灰岩を使っての相方積みが施されていたり、識名園の池に設置されている船揚場をイメージした「シンチキー」と呼ばれる船着場が川内に整備されていたりする。実際に公園内のイベントなどでは、この船着場からカヌーに乗れたりもするのだ。
蔡温と安里川
前置きが長くなったが、ここからようやく「蔡温」と「安里川」の接点に入っていく。上流から安里川親水公園に流れ込んできた川の水は、国際通りに掛かる橋の下を通ってより下流へ、そして最終的に海へと流れていく。この国際通りの一部分にもなっている橋、それこそが「蔡温橋」という橋なのだ。
その蔡温橋から安里三叉路までの通りも、「蔡温橋通り」と名付けられている。さらにこの通りには蔡温橋商店街組合という組合もあり、こういった流れから一般公募によって「さいおんスクエア」という施設名が付いたというわけなのだ。なるほど確かにそうだ、あの橋は蔡温橋という橋だったな!と気付く方も結構いるかと思う。しかし何故に蔡温なのだ?
実は蔡温、政治や経済のみならず風水や治水学にも相当に長けた人物であった。その当時はもちろん車など皆無の時代、となると川の水路を利用して、小型船での移動や物流が非常に重要だったことは容易に理解できると思う。
そこで那覇(当時の那覇は現在の久米や西町、東町あたりで離れ島だった)から首里まで続く安里川の一部を改修し、安里よりもう少し上流域、現在の松川にあたる当時の「茶湯崎村(チャナザチムラ)」に一定規模の湊を整備。そうすることによって、より交通の便を発展させ、人々の生活を良くしていきたいという計画を持っていたという。
その頃からの想いが後々の時代にも引き継がれ、蔡温に敬意を評して昭和の初期頃に安里川に掛かるあの橋を蔡温橋と名付けたそうだ。今のゆいレール牧志駅あたりには、蔡温湯という銭湯もあったらしい。