琉球王朝の創始者 佐敷小按司 尚巴志のルーツに迫る
- 2020/12/12
- 食・観光
今でこそ南城市の一部となっている、かつての佐敷町だが、沖縄の歴史好きにとって、そして琉球王朝ヒストリーを語る上でとても重要な場所となるのがこの佐敷である。
歴史好きなウチナーンチュ、琉球史に興味を持っている方ならば「佐敷」で思い浮かべるものイコール「尚巴志」と答えることかと思う。
そう、あの琉球史上初の三山統一を果たし、その後450年もの間一王国としての歴史を辿る琉球王朝を打ち立てた「尚巴志」は佐敷の生まれ育ちなのである。
しかし、琉球戦乱期における尚巴志の活躍ぶりはよく知られているものの、尚巴志自身のルーツ、バックグラウンドについてはそこまで広く知られていないのかとも思う。
そこで今回は尚巴志のその辺りにまでスポットを当てて深掘りし、尚巴志と佐敷の琉球ロマンを紐解いてみよう。
ルーツは伊平屋島
まず、尚巴志の父親は「尚思紹」(尚思紹と名乗る前は苗代大主)という人物で、尚巴志が武寧王率いる中山を倒した後、尚巴志に推されて第一尚氏初代の中山王となる。
この尚思紹も佐敷の出身である。尚思紹のお墓は「佐敷ようどれ」として現在でも航空自衛隊・知念分屯基地の敷地内に存在している。
見学することも可能だが、自衛隊基地入り口にて立入申請が必要である。
また、かつて尚巴志と尚思紹が住んでいたとされる佐敷グスク跡が佐敷字佐敷にあり、今では第一尚氏の歴代王を祀る「月代の宮」という祠が建立されている。
佐敷小学校すぐ裏手の小高い森の中にあり、その入り口には大きな鳥居が聳え立ち、車ごと鳥居をくぐって森の中腹まで上っていける形だ。そこから見渡せる景色が本当に素晴らしい!
馬天港、中城湾が一望でき、かつて尚巴志はこの海港と供に勢力を拡大していったんだな、この一帯を拠点にして大きな夢を抱いていたんだな、と思いながら眺めてみると、また一つ壮大な琉球ロマンに触れられている気がしてくるのだ。
話を尚思紹に戻そう。実はこの尚思紹の父親というのが鮫川大主(尚巴志の祖父)であり、伊平屋島から佐敷に移り住んだ人物だと言われている。
しかも、島民に妬まれて追われる形で伊平屋を後にしたと。
ん?どこかで聞き覚えのある話だ。 確かお隣の伊是名島では、後に第二尚氏の始祖「尚円王」こと「金丸」が同じく島民に妬まれて島を追われ、国頭の宜名真へ流れ着いたという話だった。
偶然なのかどうなのか。この辺りは古今琉球ミステリーのままである。
佐敷の素晴しい立地条件
その鮫川大主が、島を追われる際に援助を受けたとされる一人の老人から「流れ着いた場所の東沿岸、三方を山に囲まれた所に住みなさい」と言われたそうな。
その地形にピッタリ合ったのが佐敷であったというわけなのだ。
航空写真で見てみると分かるように、佐敷という土地は驚くほどに三方を山に囲まれ目の前に海が開けているという大層立派な土地なのである。
この独特な地形はクサティ(腰当て)と呼ばれ、風水の山河襟帯とも共通し、遥か昔から人間の生活にとって最も適した自然形状であると言われている。
しかし鮫川大主自身は未だ謎多き人物で、祖先は本土由来ではないかとか、もともとは南山の出ではないかという説もある。
というのも、鮫川大主が住んでいた居住跡・場天御嶽(御嶽の漢字は馬天ではなく場天となっている)という御嶽群が佐敷の新里に存在するのだが、その御嶽の一つに伊平屋神という伊平屋の方向を向いている重要な御嶽があり、それが昔から地元の人たちには『ヤマトバンタ』と呼ばれていたのだとか。
ヤマトというのはもちろん日本のことを指す言葉であるのであろう。(場天御嶽は過去の大型台風の影響で、実際にあった元の位置から現在の位置に移されている。)
この鮫川大主も美男子であったのか、魚売りをしている際に隣村の大城按司の娘に見染められて子を儲け、その生まれた男の子が苗代大主(尚思紹)であったと。
その後苗代大主も佐敷で力を付け勢力を伸ばしていくのだが、そんな最中これまた美男子だったからなのか、佐敷の別の有力者、ライバルとも言える美里の子の娘と恋仲になってしまい1男を儲けた。
しかし、その娘は子を授かったことを父親に告げることができず、泣く泣くその赤ん坊をアマチジョーガマという洞窟に置いて帰った。
しかしやはり気が気でない娘、2、3日経った後そのガマへと向かってみると、なんと!大きな鳥がその赤ん坊を抱え込んで温め、そして犬が乳を飲ませていたと!
そのような神がかった光景を見た娘は、この子は只者ではない!と直感し、覚悟を決めて赤ん坊を連れて帰り、父親にもそのことを告げる。すると父親も理解を示し無事赤ん坊を育てられることになったのだ。
尚巴志の誕生
その赤ん坊こそが、後の尚巴志、佐敷小按司なのである。
アマチジョーガマというガマもしっかり存在していて、漢字で書くと「天次門ガマ」。天に続くガマとも書くようで、確かにそのガマの位置というのが佐敷集落の最も高い場所にあり、天に続くように見える神秘的な場所なのだ。
ただ、ハブなどにはかなり注意しないといけないような場所なので、訪れる際には十分に気をつけてもらいたい。
他にも苗代大主の屋敷跡裏手にある、つきしろの井戸に赤ん坊は置いていかれたという説もあったりする。
その後立派にしかもヤンチャに育った尚巴志は、馬天港という良港を巧みに活用し貿易を通して鉄を導入、着々と仲間を集め力を付け、まず当時の巨大勢力であったお隣の島添大里を破るというまさかのジャイアントキリングを果たすのだ。
実はこの島添大里按司というのは、尚巴志の祖母方である大城按司を滅ぼした過去があり、尚巴志にとっては仇討ちにもなっているのである。
それを機に、中山、北山、南山撃破と、皆さんもご存知の破竹の快進撃を収め、三山統一、琉球王朝創建を果たしていくことになるのだ。
こういう角度で改めて見てみると、また違った様相の佐敷が見えてくるのではないだろうか。
佐敷の人たちが地元に誇りを持ち、地元愛が非常に強いのも大いに理解できる。
ぜひ、実際に佐敷に足を運んで、琉球史上初の統一を果たした尚巴志のロマンに触れてみてはいかがだろうか。