【歴代知事③】「ウチナーンチュの特色」説いた沖縄保守の”ドン” 3代目・西銘順治
- 2022/9/3
- 社会
知事就任で公共事業積極導入
その後、平良の辞職に伴って行われた1978年12月の県知事選へ立候補を決意。出馬表明会見では「保守、革新の立場を超えて県民全体が連帯と責任を確立しなければ沖縄の将来の発展はない。小異を捨てて大同につき、一体となれば現状を打開できる」と訴えた。当時の沖縄は、1975年に復帰記念事業の一つとして開かれた沖縄国際海洋博覧会後、急増したホテルや土産店が相次いで倒産する「海洋博不況」に陥っており、陣営は「経済の西銘」をキャッチフレーズに掲げて雇用拡大や企業誘致などを前面に押し出した。
結果は相手候補の知花英夫に26,147票差を付ける284,049票を獲得し、初当選。復帰後、保守が初めて革新から県政を奪還した。当時57歳。現在に至るまで、沖縄県知事選の最年少当選記録である。
この時、本土復帰から6年が経ってはいたが、27年間に及ぶ米統治下の影響で県外に比べて多くの部分で沖縄は立ち遅れていた。西銘はそれまでの政治経験や、旧制水戸高と東大の繋がりで築いた政治家、官僚など「中央との太いパイプ」を駆使し、予算獲得に奔走して社会資本整備に乗り出す。
1979年から秘書に就いた順志郎さんが当時を振り返る。
「竹下登さんが大蔵大臣を務めていた時に、親父と一緒に東京に予算折衝に行ったことがあるんですよ。こちらから持っていった要望書を手渡して、そしたら大臣も『知事が要望するなら分かりました。何が最優先ですか』と聞いてきてさ。すごい政治力だよね。衆議院時代の経験とか人脈が本当に生きていたと思うよ」
国からの予算獲得を力に多くの公共事業を推し進め、沖縄自動車道の南進や西海岸道路の整備、中城湾港の開発、沖縄コンベンションセンターの建設など様々な大型プロジェクトを手掛けた。
自衛官募集を開始
順志郎さんが印象に残っている出来事がもう一つ。1980年12月8日、県庁庁舎でのこと。革新県政で行っていなかった自衛官募集について、西銘が実施を表明し、この日開会する12月定例会で関連予算の可決を目指していた。すると、募集阻止を掲げる労組メンバー約200人が知事室に押し掛け、廊下を埋めて「戦争反対」「知事は会見に応じろ」と抗議の声を挙げた。
面会を拒否して議会へ行こうとする西銘に対し、秘書課の職員らは「別の階段から行きましょう」と勧めるが、「俺は何も悪いことをしてるわけじゃない。正面から行くぞ」と廊下に出て、労組メンバーの間を割って行った。スーツを引っ張られてもみくちゃにされながら、議会へ向かった。予算は12月24日の最終本会議で可決。「自衛官を募集することが戦争につながるものでもないし、県民を戦争に駆り立てるものでもない。もしそうであれば私自身が反対する」との談話を残した。
順志郎さんが振り返る。「後ろの階段から行けば避けられたし、僕ら秘書からしたらそうしてもらいたいんだけどさ、逃げ隠れするのが好きじゃないんだろうね。ああいう場面では絶対に曲げない人だった。強かったね」