島民の熱意が架けた海の道 「海中道路」を巡る物語
- 2021/11/21
- 社会
車社会の沖縄で、運転免許を取ったら真っ先に行きたくなるのが県内屈指の人気ドライブコース「海中道路」だろう。しかし、今でこそドライバーに癒しを与えるこの海中道路建設の裏には、地元住民の惜しみない努力の積み重ねがあった。
次に海中道路を渡る際、この歴史を踏まえて渡ってみると違った景色が見えてくるかもしれない。
近くて遠い島
当然の話だが、海中道路が敷かれる前は海を渡らなければ最寄りの平安座島やその先の島々にも渡ることができなかった。
しかし、勝連半島の屋慶名と平安座島の間には浅瀬が広がっており、潮が引いている間は歩いて渡ることが出来た。島の人々は潮の満ち引きを読み、時に重たい荷物を抱え、子供を抱えて約4kmもの浅瀬を渡り歩いていたという。もちろんそこには危険も伴い、最後まで渡りきれずに遭難者が出ることもあったと言われている。
戦後になると、アメリカ軍の払い下げトラックを海上バスとして利用することで海を渡り、濡れることなく島間を行き来できるようになった。
ただ乗客数のキャパシティや海上の状況に左右されるなど交通の便は依然として良いとは言えず、島まで道路を通し不都合なく渡れるようになることが島民たちの悲願であった。
島民の人力と外資の重機
1961年、ついに平安座島の人たちは自分たちの力で海上道路を整備しようと決起し、島民総出で干潮時にバケツを持って石を運び、人力で堤防のような盛り道を造り上げていった。工事費用は島民の拠出金、島出身者の募金などによって賄われたという。米軍もブルドーザーなどの重機を提供して協力してくれたという話もある。
島民たちの血の滲むような努力の甲斐あって、作業開始から半年後には総延長4kmのおよそ半分1900mあたりまで整備が進んだ。しかしその年に連続して襲来した大型台風「ナンシー」、「ディルタ」によって道は壊滅状態にまで追いやられた。島民たちの無念さは計り知れない。
その後1966年にもう一度挑戦し、今度はコンクリートを敷いていく方法を取ったのだが、もはや島民の力や財力だけでは限界だった。
そんな折、アメリカの石油会社「ガルフ」が金武湾エリアを候補として沖縄進出を計画しているという話が浮上する。当初は本島からできるだけ離れた宮城島・伊計島での石油基地建設計画だったという。しかし宮城島の島民から反発を受け、平安座島に計画案が持ち込まれた。
平安座区は、島民の長年の悲願であった「海中道路」の建設請負を条件として提案に合意。島民が10年かけても成し得なかった海中道路整備を、アメリカ資本のもとでなんとたった1ヶ月で両岸を渡し、1972年に正式な開通となった。
現在平安座島の大部分が石油基地となっている背景には、こういう経緯があったのだ。