【歴代知事①】刻まれた眉間の「縦じわ」 初代沖縄県知事・屋良朝苗の苦悩とは 復帰50年 

 

「復帰の原動力に」 教公2法阻止闘争

教公2法に抗議する県民大会。多くの人が集結した=1967年1月28日、立法院横広場(沖縄県公文書館所蔵)

 復帰運動が本格化する中、1965年8月、沖縄に転機が訪れる。佐藤栄作元首相が、日本の首相として戦後初めて沖縄を訪問し、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって戦後が終わっていない」と演説した。日米による返還交渉が進むこととなった。

 その頃、屋良は重大な局面を迎えていた。立法院与党の民主党が復帰運動の中核を担っていた教職員の政治活動を制限し、争議行為を禁止する地方教育区公務員法と教育公務員特例法の制定を画策。この動きを受けて、いわゆる「教公2法」の廃案に向け、教職員や住民が大規模な反対運動を展開していくことになる。

 迎えた1967年2月24日の採決日。立法院を2万人以上が取り囲み、警官隊をごぼう抜きにして棟内に流れ込み、本会議は中止に。その後、教公2法は廃案に追い込まれた。

 当時、現場で8ミリカメラを構えていた石川さんは、目の前で起きた光景を鮮明に覚えている。「あれだけ人がいると、人間が浮き上がって、波打つ。押して、引き返す力で警官隊をどんどん引っこ抜いていった」

 混乱を極める中、屋良は議長室で長嶺秋夫立法院議長に廃案を迫っていた。屋良本人の日記をまとめた「一条の光」(編著・琉球新報社)によれば、当時立法院議員だった古堅実吉氏のメモには、屋良は「教職員会はバカではない。是と信じることはどこまでもやる」などと話し、交渉を続けていたという。

 翌1968年11月10日に行われた戦後初の主席公選で、米軍基地の「即時無条件全面返還」を掲げた屋良は革新統一候補として出馬。日米両政府の支援を受けた前那覇市長で沖縄自民党の西銘順治を破り、米国統治下で初の公選主席となった。

 石川さんは教公2法阻止闘争を念頭に「米軍基地維持のためにも、米国は県民をこれ以上抑え付けることはまずいと思ったと思う。だから68年2月に主席公選を許すと発表した」と解説する。闘争阻止から30年の節目となった1998年に「教公2法阻止闘争史」をまとめた石川さんは、終章でこの闘争を「72年復帰の原動力になった」と総括した。

69年の返還合意 「イバラの道」の始まり

屋良朝苗(左)が佐藤栄作首相を訪ね、米軍基地の「即時無条件全面返還」等を要請した=1969年11月10日、首相官邸(沖縄県公文書館所蔵)

 しかし1969年、時の佐藤栄作首相とニクソン米大統領は米軍基地の継続使用を認めた上での沖縄返還に合意し、共同声明を発表。屋良は返還決定に「感無量」と日記に記しているが、主席声明では「私たちはいよいよ今日から復帰の道への第一歩を踏み出します。この道は幾多の困難が立ちはだかり、文字通りイバラの道になりましょう」と不満を含ませた。

 その後も基地の全面返還を訴え続け、復帰前年の1971年には沖縄の思いを届けるために「復帰措置に関する建議書」を携えて上京。しかし、屋良が羽田空港に到着する数分前、国会で返還協定が強行採決された。

 日記には怒りの言葉を残す。

 「沖縄県民の気持ちというのは、全く弊履(破れた草履)のように踏みにじられるものだ

 石川さんは「本人の苦悩は非常に大きかったと思う。当然、政治家のやることに納得はしていない。建議書の件でそれが決定的になった。これ以上の悔しい思いはなかったんじゃないかな」と、屋良の痛恨の思いを想像する。

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