阿麻和利と護佐丸の因縁 「勝連城」の歴史を紐解く

 
勝連城の模型

 また、尚泰久王政時にはもう一つ大きな事件が起こっている。それこそが上述した歴史的大事件「護佐丸・阿麻和利の乱」だ。

 勢力を伸ばし続ける阿麻和利に危機感を覚えた尚泰久は、自分の娘・百十踏揚を阿麻和利に嫁がせて姻戚関係を結んだだけではなく、自身の忠臣・護佐丸を座喜味から中城へ移住させ、監視役に就けた。

 ちなみに尚泰久自身は護佐丸の娘を妃として迎えており、護佐丸との主従関係も強化を図っている。また護佐丸自身は阿麻和利と同じ北山系の末裔であり、阿麻和利とは同族関係のようなものであった。

 正史によれば尚泰久の執拗な牽制に対し阿麻和利は奇策を立て、王に偽りの進言をして護佐丸軍を討つことに成功した。勢いそのままに首里を攻め倒そうとしたところ、百十踏揚とその侍衛である鬼大城賢雄が謀略に気付いて王府へ逃げ延びたため、阿麻和利は返り討ちにあったとされる。

 しかし阿麻和利は古集「おもろそうし」で幾度となく讃えられており、沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷もこの争いに疑問を呈した。また現在は現代版組踊「肝高の阿麻和利」の人気によって“逆賊”のイメージが逆転しつつある。

 ここで、もう少し検証を付け加えてみよう。

 例えば護佐丸・阿麻和利の乱で第三の人物である尚泰久がこの争いを主導した可能性は考えられないだろうか。護佐丸は尚泰久の父・尚巴志の時代から6代に渡って尚家に仕え、尚家を知り尽くしており、なお且つ戦のプロだ。尚泰久にとっては怖い叔父さんのような存在だったのかもしれない。

 かたや若く民からの人望厚い、飛ぶ鳥を落とす勢いの勝連城の阿麻和利。尚泰久王にとってこの二人の存在は、自身の王位を剥奪しかねない脅威になり得たのではないか

 また、元をたどれば同じ北山系同族の阿麻和利と護佐丸、しかも阿麻和利の妃は護佐丸の孫である。お互いを敵視し攻め倒すことに積極的だったとは思えない上に、もしも二人が手を結んでしまうともはや統率不可能だという危機感を感じていたのかもしれない。

 この争いの後、百十踏揚と鬼大城賢は結ばれる。尚泰久の崩御後、尚泰久と護佐丸の娘との間にできた子供たちは王位に就けていない。側室の子が尚徳王である。

 護佐丸の兄・安里大親は尚泰久の側近であった金丸に近づき、第一尚氏を破滅に追い込むクーデターを首謀した。尚家とは血の繋がりの無い金丸を尚円王に押し上げた重要人物だと言われる。

 阿麻和利が逆賊のイメージを植え付けられた一方、護佐丸の子孫は躍進し琉球王国五大名門の一つ「毛氏」として王府の最高責任者である「三司官」などを多数輩出する家柄となっていく。

 こうした様々な逸話や未解明の歴史には、個々の様々な憶測やロマンを掻き立てる大きな魅力がある。次回の勝連城巡りを楽しむ時には、歴史に思いを馳せてもらえれば幸いだ。

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