阿麻和利と護佐丸の因縁 「勝連城」の歴史を紐解く

 
阿麻和利が通って城外へ逃げたと言われる抜け穴「ウシヌジガマ」

最上階にには抜け穴も?

勝連城は造りが独特で、特に防衛面で優れた構造となっている。上階へ上る階段をあえて城壁に添わせ、侵入した敵を大回りさせる形を取りながら上階からは下に向けて攻撃しやすくなっている。

 城内は4つの曲輪(階層)に分かれており、一番高い位置にある「一の曲輪」に城主の居住空間や宝物殿があったと思われる。興味深いことに一の曲輪には二の曲輪まで繋がる地下の抜け穴「ウシヌジガマ」が通っており、阿麻和利が王府軍との戦いで追い詰められた際、危機一髪この抜け穴から脱出したという逸話も残っている。しかし追手に捕まり読谷で殺害された。阿麻和利の墓は読谷の楚辺にひっそりと佇んでいる。

捨て子から城主へ

 歴代勝連城主の中で最も名を馳せるのは、間違いなく前出の第10代城主・阿麻和利だろう。出自ははっきりしていないが、嘉手納町教育委員会によると父親は北山系の血を引く屋良後大川按司で、庶子(妾の子)だったとされる。そのため家を追い出された捨て子だったという伝承が残っていると思われる。

 一人逞しく生き延びた阿麻和利は、自然界から様々な技を学び取った。その一つが蜘蛛の巣をヒントにした投網だ。投網の考案によって漁を安定化させ、人々にもその技術を伝授して信頼を得た。そして遂には勝連城での仕事を掴み、頭角を現していった。

 そんな折、9代目の城主・茂知附按司による悪政に堪え兼ねた家臣や村人たちは、阿麻和利をリーダーに立て政変を成し遂げた。阿麻和利は民衆に推される形で第10代勝連城主となったのだった。

謎を呼ぶ王位継承争い

 阿麻和利が精力的に交易をおこなって勢力拡大をしていた頃、時の国王は尚泰久であった。実は尚泰久が王位に就くまでにはある重要な伏線があった。第5代国王・尚金福が崩御し、第6代を巡って起きた王位継承争い「志魯・布里の乱」である。

 尚金福の世子・尚志魯と、尚巴志の息子であり尚金福の弟である尚布里との争いだった。結果的に双方が命を落とし首里城も焼け落ちたとされ、その時に王位継承者となったのが尚泰久だった。

 尚泰久にとっては願っても無い転機だったのか、それとも重圧な責務だったのか。はたまた大胆な推測だがそもそも「狙っていた」とは考えられないか?
 志魯・布里の乱には様々な憶測が飛び交っている。

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