戦後北谷ヒストリー② 県民余暇のスタンダードを生み出した街

 
美浜埋め立て前、1977年の航空写真。メイモスカラー射撃場の下にハンビー飛行場が見える

返還地で始まった街づくり

 戦後35年以上もの月日が経過した昭和56年、ついに町民(昭和55年に「町」に昇格)の悲願が叶い、沿岸部のハンビー飛行場およびメイモスカラー射撃場が返還され、ようやく他地域と肩を並べた街づくりができるスタートラインに立てた。
 ここから北谷町は基地跡地利用長期計画を立てる。

 まず手始めにハンビー返還エリアの整備に入り、同時にハンビーから北に細長く延びるメイモスカラー射撃場跡地でも、商業施設建築を中心とした都市環境整備を敷き、緑と景観に配慮した街づくりが行われた。

 さらに、このニューエリアとの融合的な土地活用を目的とし、メイモスカラー跡地前に広がる海域を大幅に埋め立てた。それが現在の美浜地区である。

バブル崩壊が街づくりを変えた

 美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジ完成報告書によると、美浜地区の埋め立て事業費は50億ほどかかったという。
 1980年代後半の日本はバブル好景気。事業費は誘致企業への土地処分金によって早期に賄える公算で、町は街づくりのコンセプトも景気よく単一のデベロッパーに全てを一任し、プロのノウハウによる都市型リゾートを目指していた。

 しかし図らずも時代の大きな波が押し寄せた。バブルが弾け、デベロッパー任せのリゾート構想が頓挫し、結果的には町が主体となり複数企業に対して分割土地売買契約の締結を余儀無くされた
 さらに、各企業がそれぞれに自由な土地開発を進めてしまうことで、街づくりのコンセプトがまとまらず、景観問題を引き起こさないか、企業同士の利害関係が発生してしまわないかなどの懸念も生じた。

 そこで、新たな街づくりのテーマの設定が必要となり、町は様々な独自調査を行なった。

次ページ:
1

2

3

関連記事

おすすめ記事

  1.  サッカーJ3のFC琉球が、第2次金鍾成(キン・ジョンソン)監督体制下の初陣を白星で飾った…
  2. 今季から琉球ゴールデンキングスに加入したアレックス・カーク(左から2人目)やヴィック・ローら=16…
  3.  FC琉球の監督が、また代わった。  サッカーJ3で20チーム中18位に沈む琉球は1…
  4. 戦前に首里城正殿前に設置されていたバスケットボールゴールを再現した首里高校の生徒ら=8月27日、那…
  5.  8月12日、浦添市のアイム・ユニバースてだこホール市民交流室は熱気が渦巻いていた。ステー…
宮古毎日新聞

特集記事

  1. 再びFC琉球の指揮を執ることになり、トレーニング中に選手たちに指示を送る金鍾成監督=19日、東風平…
  2. ヴィック・ロー(中央)の入団会見で記念撮影に応じる琉球ゴールデンキングスの(左から)安永淳一GM、…
  3. 沖縄県庁  沖縄県は、地域の緊張を和らげようと、4月から「地域外交室」を設置し、照屋義実副知…
ページ上部へ戻る ページ下部へ移動 ホームへ戻る 前の記事へ 次の記事へ