戦後北谷ヒストリー② 県民余暇のスタンダードを生み出した街
- 2021/10/15
- 社会
返還地で始まった街づくり
戦後35年以上もの月日が経過した昭和56年、ついに町民(昭和55年に「町」に昇格)の悲願が叶い、沿岸部のハンビー飛行場およびメイモスカラー射撃場が返還され、ようやく他地域と肩を並べた街づくりができるスタートラインに立てた。
ここから北谷町は基地跡地利用長期計画を立てる。
まず手始めにハンビー返還エリアの整備に入り、同時にハンビーから北に細長く延びるメイモスカラー射撃場跡地でも、商業施設建築を中心とした都市環境整備を敷き、緑と景観に配慮した街づくりが行われた。
さらに、このニューエリアとの融合的な土地活用を目的とし、メイモスカラー跡地前に広がる海域を大幅に埋め立てた。それが現在の美浜地区である。
バブル崩壊が街づくりを変えた
美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジ完成報告書によると、美浜地区の埋め立て事業費は50億ほどかかったという。
1980年代後半の日本はバブル好景気。事業費は誘致企業への土地処分金によって早期に賄える公算で、町は街づくりのコンセプトも景気よく単一のデベロッパーに全てを一任し、プロのノウハウによる都市型リゾートを目指していた。
しかし図らずも時代の大きな波が押し寄せた。バブルが弾け、デベロッパー任せのリゾート構想が頓挫し、結果的には町が主体となり複数企業に対して分割土地売買契約の締結を余儀無くされた。
さらに、各企業がそれぞれに自由な土地開発を進めてしまうことで、街づくりのコンセプトがまとまらず、景観問題を引き起こさないか、企業同士の利害関係が発生してしまわないかなどの懸念も生じた。
そこで、新たな街づくりのテーマの設定が必要となり、町は様々な独自調査を行なった。