広大な返還跡地ゆえ発展した那覇新都心  マチナトハウジング シリーズ①

 
1977年のマチナトハウジングエリア(国土地理院写真)

 那覇新都心地区は現在、沖縄県内で最もポピュラーな場所の一つで、県の地価調査によると住宅地として最も土地の価格が上がってきているエリアでもある。主に1990年代後半から2000年代にかけて、高層住宅群、大型ショッピンセンター、企業ビル、飲食店、緑地公園、高等学校、そして小学校に至っては銘苅小学校、天久小学校と2つも新しく開校した。

 なぜこうも短期間に発展を遂げてきたのか?

過密化の中での新しい街づくり

 それは、新都心一帯が元々広大なアメリカ軍住宅「マチナトハウジングエリア(牧港住宅地区)」の返還跡地で、那覇市内で年々過密化が進んでいるにも関わらず、ゼロの状態から新しい街づくりを行うことが可能だったからだ。
 ハウジング南側は現在の県道330号線沿いに位置するDFS周辺から国道58号線の上之屋あたりまで、北側は同じく県道330号線の古島交差点あたりから国道58号線の天久交差点あたりまでがハウジングエリアだった。

返還後に整地された、1993年のマチナトハウジングエリア

 1970年ごろ、すでにエリア内には広い庭付きコンクリート住宅はもちろん、複数の野球グラウンド、テニスコート、プール、ローラースケート場、ゴルフ場、学校までもが存在した。
 しかし返還後、エリア内の土地全てをフラットにした上での街づくりを行うため、住宅や施設だけでなく、敷かれていた道路も全てが取っ払われ、造成はもちろん地権処理や開発計画の難航もあって10年近くの間辺り一面が原野のままとなった。そのため、当時の名残を探すのが難しい場所なのだが、いくつかの手がかりを紹介しよう。

巨大な名残

 那覇サンエーメインプレイスの近くに、安里配水池と呼ばれる巨大な水タンクが存在する。
 このタンクが立つ丘は見晴らしが良く、沖縄戦では日本軍の司令部がある首里城までの最終防戦ラインとして激しい地上戦が繰り広げられ、かなりの戦死者を出した場所でもある。アメリカ軍からも、その円錐状の形からシュガーローフヒルと呼ばれ、重要視されていた。

小高い丘の上に巨大な水タンクは遠くからでも目立つ

 終戦後、アメリカ軍はこの丘の北側に広がる台地を強制的に摂取しマチナトハウジングエリアを造成。また生活用水の給水を目的として丘の上に巨大ウォータータンクを設置する。建て替えがあったものの以前と同じ場所に立ち、街の劇的な移り変わりを見守っているのだ。現在はすぐ側まで登って行くことができ、展望台も設置されている。周りには今や高いビルが立ち並び、あまり見晴らしが良いとは言えないのだが、ぜひ実際に登ってその土地がどういう歴史を辿ってきたのかを感じて欲しい。

 こうした激動の過去を踏まえ、新都心地区は現在沖縄きっての発展を遂げている、と気付くきっかけになれば幸いだ。

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