なぜ市街地で良好状態保てた?那覇中心部から戦前の「湧田村」集落跡が出土
- 2022/10/23
- 社会
那覇市役所横に隣接する開南小学校敷地内から、戦前に存在した「湧田村」の遺構が発見された。100年以上前の琉球王府の時代や明治期、戦前の昭和期に建てられたと見られる屋敷跡や使用された陶器、屋敷囲いの石垣、側溝を伴う道路などが良好な状態で出土したもので、発掘調査を実施した那覇市文化財課の担当者は「大きなビルもある市街地は建物をつくる際に深く基礎工事をするので、きれいに残っているのは珍しい」と驚く。なぜここまで保存状態の良い遺構が中心市街地の地中に残っていたのか。
発掘調査は、学校施設の建て替え工事を前に2020年度と22年度に記録保存を目的に市が実施した。10月22日午後、一般向けに行われた現地見学会に参加し、取材した。
窯業で栄えた村 親しまれた「湧田焼」
湧田村は、戦前に開南小を含む泉崎1丁目あたりにあった集落。18世紀ごろに旧泉崎村に吸収されたが、地域ではその後も「湧田」の名が残ったという。1600年代前半、当時の琉球王府の尚豊王が薩摩に頼んで朝鮮人陶工3人を招き、湧田村で製陶技法を伝授させたため、窯業が盛んで、つくられた陶器は「湧田焼」の名で親しまれた。
遺構が見付かった場所とは真反対側の開南小学校の隅には「湧田地蔵堂跡」があり、今でも湧田村の痕跡が見られる。設置された説明板にはこうある。「湧田地蔵堂は、真言宗の僧侶日秀上人(にっしゅうしょうにん・1503~1577年)が、1538年に泉崎村の南に位置する湧田村に建立した」。地蔵は村の守護仏として地域の人に拝まれ、堂の辺りは子どもたちが鬼ごっこや陣取りをする遊び場だったという。
明治時代から戦前にかけては、村は周辺に沖縄県庁や県立図書館などの公的施設があったほか、商家や民家が立ち並んでいた。しかし1944年の米軍による「10・10空襲」と、その後の沖縄戦で民家や地蔵堂など多くが破壊されてしまった。
米軍が約2メートルを盛り土 保存の要因に
終戦後、土地を接収した米軍は建物などの瓦礫を撤去し、土を入れて一帯を埋め立てた。今回の調査では、1.2〜2メートルほどの盛り土が確認できたという。結果的に、この盛り土が遺構が良好な状態で残る要因となった。
市文化財課の天久瑞香主任学芸員が解説する。
「沖縄の復帰後、この辺りは開発が盛んになり、大きな建物が多くつくられました。建物は高さがあればあるほど地中深くまで基礎工事をしないといけないので、その際に下にある遺物はほとんどなくなってしまいます。しかし米軍が2メートル近く埋め立てていて、ここは学校敷地内で高い建物がなかったため、根元に古い遺構が残っていたのだと思います。こういった遺構自体は、市内全体で言えばそこまで珍しくはないのですが、市街地でここまできれいに残されているのは貴重です」
終戦から2年後の1947年に開校し、1952年に現在の場所に移転した開南小学校。現在、周囲は那覇市役所や沖縄県庁、沖縄県警察など高い建物に囲まれているが、発掘調査が行われた場所に元々あったのは体育館であり、基礎工事をそこまで深く行う必要がなかったため、今回の発見につながったと見られる。