タレントの照屋由規さん、B.B WAVESで再び 初めて息子に見せる“ステージ上のママ”

 

アクターズを辞めて向かった場所

 沖縄アクターズスクールは、外部からのインストラクターではなく、腕前のある先輩スクール生が後輩に指導していくスタイルだった。照屋さんも15歳ごろにはサブインストラクターとして指導を任され、21歳ごろにはチーフインストラクターになっていた。「おこがましいですけど。古株だっただけなので」と本人は笑うが、それほどまでに一生懸命ダンスに打ち込んだ。「最終的には総務経理部長も兼任していましたよ。印鑑とか預かったり、通帳とにらめっこしたり」と、スクールの運営にも携わっていた。

 転機は24歳の時だった。ずっと沖縄アクターズスクールの内側にいたが、外の世界を見ようと思い立った。8か月間大阪に行き、その後東京で1年間ほど暮らした。まず大阪に行ったのは、照屋さんが県外で暮らすことに難色を示していた母が、かつて自分が住んでいた大阪なら土地勘も馴染みもあるし安心だ、という事情からだった。

 大阪ではダンスインストラクターをしていた。「自分の中では、勝負できるのがダンスしかなかったんです。外の世界で自分のダンスがどれだけ通用するのかを知りたくて」

 沖縄アクターズスクール出身という経歴は県外でも特に光った。「大阪では『すごーい!安室ちゃんとかSPEEDとかと同じ所でしょ?』という反応が返ってきました。(当時の)『玉那覇』という名前で『沖縄の子?』というように好意的に声をかけてもらったり。でも母の時代には沖縄の人というだけでいじめられた経験もあったと聞いています。母は『安室ちゃんの登場で沖縄の見られ方が変わった』って言っていました」と語るほど、沖縄アクターズスクールは沖縄の対外的な印象を劇的に変えた一面もあった。

メンバーと「改めて出会いたい」という思い

 ダンスに生きた半生を歩んだ照屋さん。タレントとして多くの番組やCMに出演する中でも、ダンスを披露する機会はこれまでほとんどなかった。「だから、夫も私が踊っている姿を見たことがなかったんですよ。CMで踊ったことがあったんですけど、見た人からは『あれってCG?』って言われたり(笑)」

 今では5歳児と0歳児の母でもある。長男を身ごもってからは踊っていなかったため、かれこれ6年ほどのブランクがあった。「B.B WAVESで大復活祭出演の打診を1年ほど前に受けた時も、最初は迷ったんです」というのには、大きく2つの理由があった。1つ目は、当時2人目の子を妊娠していて、産後に動けるかどうか分からなかったこと。2つ目は、沖縄アクターズスクール時代の栄光に自分がしがみついて立ち止まってしまうことにならないかという躊躇があったことだ。「だけど、それを理由にして何もしないことこそが“立ち止まっていること”になるなと思って」。B.B WAVESのメンバーの中には20年ぶりの再会となる人もいる。「新しい今の自分として、みんなと改めて出会いたいです。昔に戻るのではなくて、新しく踏み出していきたいと思いました」

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