アジアを股に掛ける災害救助請負人(上)
- 2020/9/7
- 社会
アマチュア無線から特殊部隊で通信担当
――災害救助を志したきっかけは?
「意外かもしれませんがアマチュア無線です。高校時代ブームを迎え、自分で部品を買ってきて無線機を作りアンテナを立てて、屋上で「CQ、CQ」とやっていました。まだ戒厳令の名残があって、本来無線は違法だったけど、地域ごとに協会組織ができていたんです。台湾らしいですよね。どこかで交通事故が起きたという情報を受信すると、みんなで現場に駆け付けて交通整理や清掃をしました。ボランティアの始まりです」
――アマチュア無線から始まったなんて面白いですね。
「その後、兵役に服するのですが、当初陸軍配属だったのが、3千人中20人の特殊部隊にも選抜され、空挺部隊に配属されました。そこでまた無線の知識が生きて、通信の担当になったんです。100分の2の確率の無線の資格に合格し、2年で終了するのを引き留められて3年半服務しました。
その間、台湾全土が巻き込まれる大型台風が発生し、通信用の大型アンテナが倒れ不通になりました。アメリカに部品を発注すると1年かかるというので、電気店を回って集め、周波数なども計算し復旧にこぎつけました。防災訓練と無線の復旧、これが兵役中の私の主な仕事でした」
――除隊後は?
「台湾初の総統選を控え、中国人民解放軍が台湾海峡にミサイルを発射したため、しばらく不景気が続きましたが、李登輝氏が当選後は景気も良くなり民主化も進み、始めた不動産業も好調で、先輩に誘われて四輪駆動車でツーリングやキャンプを楽しんでいました」
民間レスキューのボランティア
――それが災害救助につながっていく?
「仲間と『四駆クラブ』でレスキューチームを作ってツーリング中に遭遇する事故に対応していました。1999年9月に発生した南投地震では、クラブの中で一番若手だった私が声を掛け、四駆3台を駆って深夜の南投に向かいました。救助キャンプで物資を積んで中寮郷を目指し、着いた時は真っ暗で辺りから嗚咽が聞こえてきました。
物資の積み降ろしと配給は夜明けを待つことにし、捜索活動を始めました。テントを張り70体余りの遺体を安置しました。10時頃になって羅さん家族が私たちの元に来て、「祖母と孫娘を助けてほしい」と頼みました。瓦礫の中を捜索すると人の膝が見えてきて、女性は子どもを抱えています。女性は息絶えていましたが、懐に抱えられた子どもは無事でした。羅さん家族が探していた祖母と孫娘だったんです。今でもその光景とあの夜の満天の星は忘れることがありません。
数日後、日本やトルコ、シンガポールのレスキュー隊が来ました。それこそヘルメットと軍手で作業していた私たちから見ると、装備も動きも本格的で格好いいなと思いました。自分たちもいつか彼らのように活躍したいと心に誓いました」