台湾・和平島の「琉球漁民慰霊碑」国民党に撃ち殺された琉球人
- 2022/1/25
- 国際
1937年、詩人で作家の佐藤春夫氏は「社寮島旅情記」を発表。文内で次のような描写がある。「船が基隆に入港したのは11時頃、陸はなつかしかったが、日の光に聊か異郷にきた思いがあってためらっていると、友人が内地から来た奴をいきなり真昼の基隆の街へ引っぱり出すのも可哀相なようだね。どうせ基隆には見物するところもない。どうだ。あの島に渡って涼んで来ないか。あの山の裾に琉球人の部落がある。泡盛でも飲んで蛇皮線を聞くぐらいの外、つまぬところかも知れないが、と誘われて、基隆港外の何とやらいう名も忘れた小さい島に案内されていた。……この名も忘れた小島を後に地図をみて思い出したのが社寮島ということであった」とある。
この一節からも当時の島の料理屋では、琉球人の飲食や芸能が堪能できた、と垣間見ることができる。そして、彼らのこのような生活ぶりや飲食習慣が現地の住民にも深く影響を及ぼした。
1945年、日本の敗戦によって、50年間続いた日本統治時代が終わる。台湾にいる日本人在住者は引き上げて帰郷しなければならない。社寮島の琉球人集落も琉球人の帰郷によって、消滅した。
二二八事件で命を落とした琉球人
戦後、台湾は蒋介石率いる国民党軍が進駐してきて、中華民国の領土に編入。しかし、国民党軍の軍紀は乱れていて、婦女暴行や強盗事件が頻発。さらに、行政を担う要職は、新たに中国からやってきた「外省人」と呼ばれる人たちが仕切って、もともと台湾に住んでいた「本省人」を排除。中国人の支配に反発した台湾人は、1947年2月28日に台北市で蜂起し、のちに台湾全土に広がる。これを「二二八事件」という。蒋介石は徹底的に事件を弾圧することにした。
3月に入り、基隆要塞本部では国民党政府援軍の上陸を協力するため、基隆で「粛清工作」を実施。集まっていた住民を無視し無差別に撃ち殺す。沖縄にまだ帰郷していない琉球人30余人は言葉のハンディで、社寮島で立往生するなか、その場で射殺され、幾人かは姿を消した。当時、無実な民間人にとっては、残忍な処刑場で、推定数万人が射殺されたという。