教育で琉球と日本を変えた名護聖人「程順則」

 
クニンダテラスではいろは歌をカルタのような形で見られる

六諭衍義を「いろは」で伝える

 程順則が六諭衍義をより広く分かりやすく、庶民にも伝わるよう琉歌(琉球短歌)として詠み伝えた。それをいろは順に47首編集した歌集が『琉球いろは歌』だ。その一つ一つがいわゆる「黄金言葉(くがにくとぅば)」として現代にも受け継がれているのである。

例えばいろはの“い”は、冒頭で唱えた

「意見寄言や 身ぬ上ぬ宝 耳ぬ根ゆ開きてぃ 肝にとぅみり」
(人の意見や言葉は自分にとっての宝になる、耳の根っこまで開けて心に留めなさい)

“さ”は、

「栄い衰いや 夏とぅ冬心 繰り返し返し 脱りぐりしゃ」
(人生において栄たり衰えたりするのは季節の夏と冬のようなもの、必ず繰り返すもので脱れられるものではない)

といった具合でまとめられている。

 程準則の生まれ村である久米には、現在「クニンダテラス」という旧久米村の歴史資料室がある。その敷地内には、一つ一つのいろは歌が大きいカルタのような姿で設置されており、一首ずつ探しながら学んでみるのも楽しい。

 また、琉球いろは歌がプリントされたTシャツやタオルなどを販売している自動販売機もある。歌の一つ一つがウチアタイ(図星をつかれる)するような内容で、自分への戒めも込めておみくじ感覚で買ってみるのもいいだろう。

“名護マサー”の生みの親?

 程順則のもう一つの大きな偉業は、自ら王に懇願し琉球初の公立学校「明倫堂」を作ったことである。教育に力を入れることこそが国を豊かにし、人々の生活を豊かにしていくのだ、という教育への強い思いが現れている。

写真:明倫堂.jpg  現在も久米至聖廟内の一部として利用されている

 晩年、程順則は名護に移った後も村人に向けた教育・道徳普及に力を入れ、総地頭になってからは名護から犯罪が無くなったと言わしめたほどであった。
 この出来事がきっかけとなり、名護は「名護マサー(勝)」と呼ばれる「リキヤー(秀才)」もしくは「ガージュー(負けず嫌い)」が多く輩出される村へと変わっていったのかもしれない。元々名護の番所だった現在の名護博物館前には、程順則の銅像と六諭衍義の六つの言葉が書かれた石碑が鎮座しているので、機会があれば是非訪れてみてほしい。

 これからも「やっぱり名護んちゅは名護マサーやさや!」と思わせてくれる名護の未来を期待しよう。

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