神里原から国際通りへ ガーブ川が繋ぐヒストリー
- 2021/8/2
- 社会
那覇市内にある神里原(かんざとばる)という地域をご存知だろうか?
神里原を知らなくても、神原といえば大体の位置が想像できるだろう。与儀公園から、ひめゆり通りを挟んだ向かい側には神原小、神原中学校がある。行政域は壺屋の一部だが、以前はその一帯が神里原と呼ばれたことに由来し「神原」が残っているのだ。神里原は、国際通りに劣らず栄えていた時代があった。
闇市が生み出した繁華街
戦後の沖縄では、まず壺屋に人が集まり復興が始まった。そこからほど近い開南や松尾あたりに闇市が自然発生した。しかし衛生面や、米軍からの横流し品の問題などで取り締まりを受け、代替地として牧志のガーブ川添いに公の形で「公設市場」が誕生するのだ。公設市場が誕生したことにより、野菜などの商品を市場へ卸すための卸市場も設けられた。それが近年農連プラザへと生まれ変わった農連市場である。
ちなみに農連市場や神原小中学校は、県の農業試験場跡地にある。公設市場が誕生すると、壺屋・海南から市場にかけての通りには人々が切れ目なく行き交い、バス会社もこぞって通りにバス停を設置し、あっという間に那覇最大の通りとなった。現在は大幅な道路拡張整備が行われ、当時の面影はほとんど残っていないが、現在の壺屋焼物博物館から農連プラザあたりに繋がる道。この道が神里原大通りだったのだ。
どれほどの賑わいだったかといえば、飲食店はもちろん、雑貨、金物、美容院、薬局、芝居劇場、映画劇場、全盛期はその一帯だけで300を超える店舗があったという。
皆さんご存知の“あのデパート”も神里原に進出していた。
沖縄デパートをも動かした国際通り
戦前まで東町にビルを構えていた山形屋、そして琉球貿易株式会社こと現在のリウボウもこの波に乗って神里原に進出していた。ちなみにリウボウは、1948年に崇元寺町で貿易業を創業している。
その後マーケットの流れを読み、最も早く国際通りへ移転したのがリウボウだった。1954年に松尾へ移転し徐々に売場面積を広げ、パレット久茂地に入居したのは1991年である。
リウボウの移転から間も無く山形屋も牧志に移転し、後に三越となる大越百貨店も国際通り牧志にオープンする。さらには泉崎にバスターミナルが建設されたことで、バスの主要路線も国際通り経由へと大幅変更されていった。
この影響で昼の商店街としての神里原は衰退していく一方で、夜の社交街として賑わっていき、次第に政財界の人達が集まる場所となる。あの筑紫哲也も沖縄に来る度に通っていたという。まだ僅かにノスタルジックな面影が残っているので、今の内に見ていて欲しい。