屋富祖大通りとキャンプキンザー 戦後の浦添発展史
- 2021/5/1
- 社会
浦添市は人口数で沖縄第4位、人口密度は那覇に次ぐ第2位で、まさに副都心と呼ぶにふさわしいエリアだ。市西部一帯には未だ広大な敷地を有する米軍基地キャンプキンザー、別名「牧港補給地区」が広がる。
浦添の発展とキャンプキンザーには、歴史的に深い関わりがあった。その経緯を紐解いていきたい。
戦後に造られた2つの巨大建造物
現キャンプキンザーは、太平洋戦争の沖縄戦直前に、日本軍によって造られた南飛行場(仲西飛行場)が前身になっている。
米軍上陸後瞬く間に占拠され、第二次大戦終戦後もアメリカ軍にとって重要な軍事拠点の一つとなり、施設機能も順次拡張されていった。主な役割はアメリカから輸送されてくる様々な物資を貯蔵し、県内各地の米軍施設へ配送することであった。施設の建築には現地の住民が多く雇われるようになり、戦後間もなく仕事も無い時代だったため、キンザー近隣には仕事を求めて移住してくる人が急速に増えた。
さらに同時期牧港には、アメリカ軍によって巨大な火力発電所が建設されることになる。今の沖縄電力だ。
前例のない大型発電所プロジェクトのため、県内外、国外からも技術者が集められた。この2つの巨大建造物雇用によって労働人口が急速に増えたことによりサービス業も次々と生まれた。那覇に近いこともあり、かつての農村は一気に活気を帯びていくことになる。
住居不足になるほど賑わった屋富祖
中でも、特に活況を極めたのが屋富祖エリアだ。現在でも浦添の繁華街といえば、屋富祖というイメージだろう。戦後当時から屋富祖入り口とキンザーゲートは軍道(現在の国道58号線)を挟んで対を成していた。キンザーで軍作業を終えた人々が屋富祖で飲食、買い物などをして帰るため賑わっており、軍人が立ち寄ることを許可されていたAサインバーも軒を連ねていた。さらに屋富祖だけで4つの映画館があったということからも、その活況ぶりが想像できる。
しかし急激に増える人口に対し住居が足りず、家の中の空いている部屋を間貸ししたり、住宅敷地内に別の簡易小屋を建てて貸したりすることも多くあったという。移住して来る人たちは本島に限らず離島や奄美からも多く、慣れない土地でお互いの生活を支え合おうと、各地の郷友会が作られる。浦添が移住者の街だと呼ばれる所以である。
外国商社が軒を連ねた商業エリア
戦後、米軍にとっても浦添西海岸とキンザー近隣エリアは特別な場所となっていく。それが「マチナトコマーシャルエリア」だ。
現在港川の国道58号線沿いに立ち並ぶカーディーラー群からイバノ、ブルーシール、そして沖銀や琉銀の牧港支店があるあたりまでは、建築関連商社、自動車会社、保険会社、テーラー、フィルム商社、洋酒メーカー、飲料メーカーなど、米軍人向けの外国商社が軒を連ね、軍人たちにとって生活を豊かにすためのサービスを提供するアメリカンな景色が広がる一帯であった。本土復帰に伴う外国商社の撤退後も、日本の大手企業や製造業が軒を連ねるエリアである。ブルーシールは現在でも当時と同じ場所で営業をしている。
屋富祖の衰退とキンザーの位置
本土復帰を経て、時代の流れと共に人々の生活やニーズも大きく変化し、大型スーパーや郊外型のショッピングセンターが誕生。すると人々の行動は街の商店街から郊外へと向けられるようになり、屋富祖も同様な理由から衰退の一途を辿るのであった。ここにまた一つキャンプキンザーの存在が大きく関わっていたのだ。
復帰を機に、1978年には沖縄の道路交通法がそれまでのアメリカ式右側通行から日本と同じ左側通行となった。そのため大都市那覇から屋富祖へアクセスするには、大幹線道路58号線を右折しなければならなくなり、車両の流入が減少したことが考えられる。また仮にキンザーが早期に変換され、跡地に新しい街ができていたとすれば、屋富祖交差点は三叉路ではなく十字路となり、新しい街との連携でその後の進展が違ったのかもしれない。
現在の屋富祖に当時のような活況を見ることはないものの、今でも浦添一の社交街として人気のエリアであり、昭和感が色濃く残るレトロな街なのだ。次回屋富祖界隈を訪れる際には、歴史を踏まえた上で違った角度の浦添を見つめてみてはいかがだろう。