歴史を紐解けば見えてくる 与那原の魅力
- 2022/10/25
- 社会
沖縄本島で一番面積が小さい市町村はどこかご存知だろうか?
それは与那原町だ。離島を含めても渡名喜村に次いで県内二番目に小さい行政区となっている。しかし人口は19000人を超え、41市町村中18位に食い込む。小さい町にこれだけの人口となれば、それだけ魅力ある地域と言えるだろう。
今回は与那原町にあふれる興味深い見どころをお伝えしよう。
王朝時代から重要な交通拠点
与那原は戦前まで大里村の一部であったが、1949年に分離して与那原町となった。琉球王朝時代も大里間切の一部に過ぎなかったが、その歴史は古く古来より交通の要衝としての役割を果たしてきた。
与那原大綱曳が開催される御殿山青少年広場の一角に「御殿山」という拝所がある。その地は聞得大君(琉球王国の最高神女)の「御新下り(就任の儀式)」が行われる際に立ち寄る順路の一つであったと言われる。また、国王始め聞得大君などが久高島を巡礼する際には与那原の浜から船を出したそうだ。
御殿山という名称は、士族の御殿を建てるための木材が山原から船で運ばれ、そこに山のように積まれたことからその名が付いたという。また御殿山は王朝時代から続く霊地巡礼の旅「東御廻(あがりうまーい)」の1地点でもあり、与那原にはさらにもう一箇所、聖水とされる水が湧き出る「親川」が巡礼ポイントに指定されている。
御新下りでは、斎場御嶽に入り親川で組んだ霊水を新しく就任する神女の額に撫で当てる「御指撫(ウビナディ)」を行うことで霊力を授かり神と同格化したという。
親川は2022年に改修工事され、現在は親子で楽しめる親川広場になっている。湧き水をポンプで汲み上げることもでき、ポンプ横の水路には与那原大綱曳で使用されるカナチ棒が水に浸された状態で保存されている。
かつては沖縄きっての港町だった
海の要衝として栄えた与那原では、やんばるから船で運ばれてきた資材を馬車に乗せ、首里や那覇に運搬する「バサスンチャー(馬車引き)」も活況を呈した。さらに大正時代に沖縄軽便鉄道が創業し最東端の「与那原駅」が開業すると、ますます人や物の流れが活性化しバサスンチャーも人運びに物運びにと隆盛を極めた。
人が集まるところには街ができ、宿場や料亭などがひしめきあう。女将や女中が店を切り盛りし、彼女たちの身だしなみにも一段と力が入っていった。今でも与那原に美容院やビューティーショップが数多く立ち並ぶ理由は、与那原がかつて沖縄きっての港町だった歴史に理由があったのだ。
また、木材がひっきりなしに運び込まれる港町なので、大量の木を燃料とする「瓦業」も栄えた。焼物の原料となる「クチャ」が与那原の地で多く採れたことも大きな要因の一つだった。
現在も瓦といえば与那原のイメージであり、今はなき先代首里城の赤瓦が与那原で焼かれたことも記憶に新しい。ただ、火を多く使うため火事が起きる頻度が高まった。与那原各地に火消しの守り神である石獅子が多く点在しているのはそのためだ。
蘇った与那原駅舎
上に述べてきたように、かつての与那原は港町、軽便鉄道最東端駅の町として栄華を極めた。与那原駅舎だけが他の木造駅とは違いコンクリート造りだったこともその繁栄ぶりを象徴していた。
昭和天皇が皇太子であった1921年、ヨーロッパを外遊する前に初めて沖縄に立ち寄り上陸したのも与那原の浜だった。その御召艦「香取」の艦長は沖縄出身の漢那憲和。東宮殿下(昭和天皇)は与那原駅から那覇駅まで軽便鉄道に乗車し、那覇駅から県庁まで人力車で来庁した。久茂地川に掛かる「御成橋」の名は、東宮殿下がこの橋を渡って県庁へ向かったことに由来する。
与那原駅舎は戦争によって大きく破損したが、コンクリート造りだったために全壊は免れ、修復を重ねながら町役場や農協として2013年まで使用された。その後取り壊しが決定されたが同地に新しく旧与那原駅舎を再現し、現在は軽便与那原駅舎展示資料館として運営されている。
資料館の裏には、戦前から駅舎を支えてきたコンクリートの柱9本が残されている。また資料館前には「東宮殿下御乗車記念碑」が建ち、えびす橋近くに「東宮殿下御上陸記念碑」が建っている。
本島で最も小さい町にこれだけ興味深い歴史が詰まっている。与那原町民もさぞ誇りに思っているのではないだろうか。
あなたの住む町にもきっと必ず面白い歴史が眠っている。今一度探り出してみてはいかがだろう。