独特な雰囲気の「石川」が戦後沖縄の中心地だった理由
- 2022/7/31
- 社会
「平成の大合併」以前の沖縄県本島中部には、宜野湾市、沖縄市の他に石川市と具志川市があった。現うるま市はその旧石川市、具志川市、そして与勝半島の勝連町と与那城町の4自治体が合併してできた巨大な市だ。特に石川は北部最大の名護市に至るまでの中部最北繁華街があり、現在も昼夜賑わいを見せている。
もともと石川は旧美里村の一部でしかなかったが、戦後美里村から分離し一気に「石川市」へ格上げとなった。石川市としての歴史は1945~2005年の60年間だ。
浦添市や宜野湾市などよりも遥かに早く「市」となり、戦後一気に中北部の中心地となった背景には一体何があったのか。石川の歴史を紐解いてみよう。
古琉球時代の要所「伊波グスク」
石川が旧美里村の一部であったことは先に述べたが、美里村自体もかつては越来間切の一部であり1666年に美里間切が新設されている。
石川伊波にある「伊波グスク」は、14世紀北山王権争いに敗れた今帰仁一族の今帰仁王子が築城したと言われる。今帰仁から美里に逃げ落ちた際、美里の豪族「美里大主」に見出され大主の娘を娶り、伊波グスクを建て伊波按司と名乗り親族とともに勢力を拡大していった。
また、その頃南部を起点に力を付け始めていた尚巴志に自身の娘を嫁がせ、強力な連合軍を組み共に北山制圧を果たした。それは伊波一族(今帰仁一族)にとって悲願の仇討ちでもあった。
その後第二尚氏王統期になると、各地の按司や豪族が首里住まいを強制される中央集権体制となり、伊波按司五世も首里へ移住し伊波グスクは廃城となった。それから沖縄戦を経て伊波城丘陵の一部が米軍の保養施設「伊波城観光ホテル」として開発利用され、返還された今も「ココガーデン リゾート オキナワ」として民間運営されている。