独特な雰囲気の「石川」が戦後沖縄の中心地だった理由

 

交流地としての「石川収容所」

 かつて美里村の一部でしかなかった石川が、一気に石川市へと昇格を果たした背景には沖縄戦が大きく関わっていた。1945年4月に沖縄本島上陸を果たした米軍は、あっという間に各地を接収し民間人を捕虜として収容所へ送り込んでいった。

 主に本島の東側に収容所を造り、特に大規模な収容地区として北部に辺土名、田井等、瀬嵩、久志、古知屋、宜野座、漢那を中心とした7エリア。中部には石川、胡差(コザ)、前原、平安座の4エリア。南部には知念を中心とする1エリアが設けられた。

 戦時中捕虜となった住民30万人以上がこの12エリアに収容され、終戦後の1945年9月に発布された地方行政緊急措置要綱によって県内12市に制定された。(後に糸満市も発足し13市となった)

 特に石川収容所は沖縄本島南北の中間地であり、本島で最も東西間の距離が短い狭小部を持つことから本島を南北に分ける軍事ポイントとして重要視されていた。

石川収容所は収容施設の中でも重要な場所だった(沖縄県公文書館所蔵)

 また米軍政府が各収容所から招集した地元識者によって組織された諮問機関「沖縄諮詢会」が設置されたことや、米軍政府が読谷比謝から具志川栄野比に移ってきたこともあり、石川収容所は沖縄各地から人が集まる交流地となり戦後沖縄の中心地になっていく。

 沖縄のチャップリンと呼ばれた小那覇舞天が、照屋林山を伴い石川収容所を中心に人々へ笑いを届けたことでも知られる。時の諮詢会委員長は志喜屋孝信であり、沖縄諮詢会が置かれていた家屋が現在も石川に残っている。

沖縄諮詢会が置かれていた家屋

*沖縄諮詢会: 米軍政府が米軍と沖縄住民との意思疎通を円滑に行うために設置した地元住民代表による行政機関

戦後沖縄行政の中心地

 その後各収容所から人々の帰村が進むにつれ各地人口移動が活発となり、上記緊急措置要綱は解かれ12市体制は解消、戦前の市町村行政機構へ復帰した。しかし石川市だけはその重要性を維持し特区扱いを受け旧美里村から分離独立、そのまま石川市として存続することになった。

 沖縄の高速自動車道が1975年「許田 – 石川」間から始まっていることにも当時の石川の重要性が見て取れる。

 石川収容所が撤去された跡地は米軍の保養施設「石川ビーチ」となり、1977年に返還されるまで米軍のためのビーチだった。返還後は沿岸部の埋め立て開発が行われ、旧石川市役所設置や大型運動公園の整備が行われた。開発によって規模が大幅に縮小された石川ビーチだが、今もどこか懐かしい雰囲気を残し地元の人々に愛され続けるスポットになっている。

地元の人に愛されている石川ビーチ

 石川は戦後沖縄の行政発足の地として、そしてかつては沖縄の中心地であった誇りが今なお見え隠れする場所だ。機会があれば歴史に思いを馳せながら、ゆっくりと石川の街並みを歩き楽しんでみてほしい。

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