沖縄の90%以上の中学校で空手教育 普及に大きな役割
- 2021/10/21
- エンタメ・スポーツ
かつて空手は全ての人が学べたわけではありませんでした。琉球王国の王家を護る護身武術として存在した空手、手(ティー)は限られた人だけに伝えられる武術だったのです。
体育授業への導入が一般に広まるきっかけに
沖縄では明治時代に学校教育の体育授業として空手が導入され一般に広まるきっかけとされています。1880年に沖縄に初めて学校が設立され、1885年から体操の授業が開始。1905年(明治38年)に沖縄県立中学校において糸洲安恒の指導のもと空手が始まりました。糸洲安恒は、古流から伝わる形を若い学生たちに教え普及させるため「平安(ピンアン)」という五つの形にまとめました。これは急所攻撃の危険な技を除き体育格技として体系化されたものです。
明治期から糸洲安恒をはじめ東恩納寛量、宮城長順、花城長茂、船越義珍、城間真繁、許田重発、徳田安文など著名な空手家が学校において空手指導を行い、大正期には沖縄県立第一中学校、沖縄県立師範学校、沖縄県立工業学校、那覇市立商業学校、沖縄県立農林学校において多くの空手家が武道教師として勤めていました。その後、授業以外でも運動会や学芸会など空手を発表する催しが度々され沖縄においての空手普及の基礎になったと言われています。
戦後、本土で空手普及に尽力した金城裕(1919-2015)は昭和6年(1931年)に沖縄県立第一中学校に入学して当時の空手部の顧問であった徳田安文に師事。この頃は空手着はなく体操服で行われていたそうです。空手着は柔道着をモデルとして作られ、道着に関しては空手とは逆に沖縄には本土から伝わることなったということになります。
戦前戦後の沖縄空手界を担ってきた空手家に教育者、教員は多くいるのはこのような一連の流れによるものだったのです。
学校現場で空手を指導できる教員が多数在籍
来年、2022年は船越義珍が本土に空手を紹介してちょうど100年の節目となります。本土において船越義珍は大学を中心に指導し、普及していった流れがあります。ですので沖縄では中学校、本土では大学という学校現場から空手が広まっていったという事になります。
学校における武道教育については、武道を通じて我が国固有の伝統と文化により一層親しむ事を目標に、文部省が2012年から全国10400校の中学校で武道が体育必修正課として剣道、柔道に加え空手を導入した事は記憶に新しいと思われます。現状としては2012年の導入時点での実施校は180校余。2020年での実施校は400余校となり、2023年度中には倍以上の900校での実施目標を掲げています。
しかし、これは全国的に見ても全体の一割にも及びません。これに比べ沖縄県の中学校では2019年で135校実施されて県内144校ある中学校で実に90%以上の実施状況があります。理由としては学校の現場で空手を指導できる教員が沖縄には多数在籍している状況があげられるでしょう。
野球の甲子園でも知られる興南学園(中学校・高校)での空手の取り組みは特に有名で、空手部が中・高校にあり学園内に空手道場も有しており、生徒は卒業時には黒帯(初段)くらいの空手を身につけるといわれています。東京オリンピックの空手・男子形の金メダリストである喜友名涼選手はこの興南高校の卒業生です。ちなみに、ボクシング元世界チャンピオンの具志堅用高も興南高校出身。現在も体育の空手授業の時間に全日本空手道連盟の各都道府県の道場から講師として空手指導者が派遣されて授業が行われています。
筆者の中学時代
最後に筆者が中学一年生の時(1981年)の思い出を紹介します。運動会の学年催しで男子は空手の形をやることになりました。筆者が通っていた千葉県松戸市立第一中学校は一学年15クラスもあるマンモス校でした。集団空手演目を240人ほどで行いましたが体育着の上着は脱ぎ、裸足で頭にハチマキを巻き。この姿は昭和初期に残されている沖縄県立第二中学校の空手授業(演武)とほぼ同じ格好です。
筆者は小学三年生から遠山寛賢伝の沖縄正統空手を習っており運動会前の夏に黒帯(初段補)を取ったばかりでした。自分と同じく空手教室に通っていた友人の二人が大将ということで頭に長いハチマキを巻き先頭に立つことになりました。形は太鼓の音に合わせて一つの動作を動き、動作ごとに気合も入れました。一学年男子団体種目・空手「燃えよドラゴン」は沖縄での中学校体育の授業が源流です。
沖縄では授業を始め学校行事や祭り、結婚式などで空手に触れる機会が日常的に多くあるのも本土と違う事情でしょう。先の東京オリンピックは世界中に空手の存在を知らしめました。中学校の武道教育による空手授業は実際に空手体験できる身近なきっかけとなることでしょう。そこから空手の楽しさを見い出して生涯続けてほしいと思います。