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投稿者プロフィール
池村 純
沖縄情報英字ウェブマガジン Okinawanderer、外国人向けライフスタイルサイト Okistyle を運営する(株)琉球プレスの代表。日々外国人と民間業者および県民との接点を作り出すコーディネーター、コンサルタントとしても活動。2018年より毎週火曜日午後7時台エフエム沖縄『Share TIME』にボス・イケムラとしても出演し、沖縄の隠れた魅力を発信中!
池村 純一覧
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- 2021/8/10
- 社会
かつて琉球の人々が通った「長虹堤」を歩いてみる
那覇にはかつて、海の上に敷かれた海中道路があったことをご存知だろうか。今はその姿を見ることはできないが、僅かに残る道跡を訪ね歩いてみよう。 浮島那覇と本島を結んだ海中道路 那覇はもともと浮島とい… -
- 2021/8/2
- 社会
神里原から国際通りへ ガーブ川が繋ぐヒストリー
那覇市内にある神里原(かんざとばる)という地域をご存知だろうか? 神里原を知らなくても、神原といえば大体の位置が想像できるだろう。与儀公園から、ひめゆり通りを挟んだ向かい側には神原小、神原中学校がある… -
- 2021/7/28
- 社会
「奇跡の1マイル」の軌跡 国際通りと戦後復興
急速に観光地化が進み、地元民があまり訪れなくなってしまった国際通り。しかし沖縄を代表する観光スポットであり、「奇跡の1マイル」と称される戦後復興のシンボルでもある。国際通りの歴史を知ることで、戦後沖縄の理解を… -
- 2021/7/21
- 社会
かつて沖縄一賑わっていた場所は? 那覇の街の今昔
沖縄の県都那覇市。その中で最も賑わいのある場所はどこかと問われると大半は「国際通り」周辺もしくは「新都心」と答えるだろう。しかし、戦前の那覇は大きく異なっており、現在の東町・西町辺り、元は離れ島だった“旧那覇… -
- 2021/7/15
- 社会
“離れ島・那覇”の面影が残る場所「若狭」と「辻」
那覇市若狭は、海浜公園やクルーズ船バース、波上宮、波の上ビーチなどがあり、海岸沿いの街をイメージする人も多いだろう。 泊大橋の下に広がる若狭海岸エリアは、今でこそ綺麗に整備された景観となっているが、戦… -
- 2021/7/8
- 社会
湧き水豊かな「繁多川」の地名の由来とは
首里のすぐ南に位置する那覇市繁多川、真地は、琉球王朝時代に首里から多くの士族が移り住んで作った屋取り(ヤードゥイ)集落である。そのため現在も町並みには風情があり、昔ながらの家屋や歴史ある史跡も数多く残る。何よ… -
- 2021/7/3
- 社会
【戦後76年】戦跡を巡る③ 戦後から時が止まる南風原山中の壕群
太平洋戦争末期の沖縄戦では、首里城の地下に日本陸軍沖縄守備隊第32軍司令部が築かれ、戦後そのままの状態で封印された。先の首里城正殿の焼失・復興再建計画に伴い、地下司令部壕の公開を求める声が上がっている。 この… -
- 2021/6/22
- 社会
【戦後76年 慰霊の日】戦跡を巡る② 「野嵩」 収容所設置で多くの人が行き交った過密ポイント
野嵩は市役所のある宜野湾行政の中心地で、終戦後にも役所が置かれていた(役所は一時普天間に移ったが、現在野嵩に戻っている)。しかし市外の人たちにはあまり広く知られていない場所ではないだろうか。お隣普天間の方が圧… -
- 2021/6/21
- 社会
【戦後76年 慰霊の日】戦跡を巡る①「読谷」 9割が米軍用地だった場所に残る爪痕
今年も沖縄にとって特別な1日、慰霊の日が近づいてきた。 戦後76年、戦争体験者の数は年を追うごとに少なくなり、凄惨な過去が薄れていく気がしてならない。我々の世代が後世に伝えていけることは何であろうか。… -
- 2021/6/6
- 社会
埋立て前の海岸線が語る安謝・天久の琉球秘話
安謝港と安謝港に連なる曙町、港町はほとんどが戦後に埋立てられた土地だ。安謝港前の泊大橋に繋がる波之上臨港道路も、もともとは海洋であった。その臨港道路から一本内陸側の旧道はかつて海沿いに伸びる細道で、現在はこの…