玉城流いずみ会・又吉家元芸道70年 慰霊の日に込める「踊りは祈り」

 
玉城流いずみ会家元又吉静枝さん

 琉球舞踊団体「玉城流(たまぐすくりゅう)いずみ会」が6月23日の慰霊の日に琉球舞踊公演『千年の祈り』を開催する。その幕開けは親子で踊る鎮魂と平和をテーマにした創作舞踊。タイトルに込められた意味とともに、琉球舞踊における鎮魂と平和の形について探る。

疎開から戻る船上で踊る

 玉城流いずみ会家元又吉静枝さんは、芸道70周年を迎えた。年齢を感じさせない丁寧な踊りが印象的だ。「今日は稽古だからこんな格好でごめんなさい」と笑うが、上品な着物を見事に着こなす家元の気品を感じさせる。

 那覇市東町で生まれた又吉さんは、疎開する叔母(母の姉)を、母の腕に抱かれながら見送った。その叔母が乗った船は対馬丸であった。見送る船で見た叔母の姿が最後となってしまった。

 その後又吉さんは1歳から5歳までを疎開先の大分で過ごし、船で沖縄へ戻ってきた。船の中で乗り合わせた人が三線を弾き、又吉さんはそれに合わせて踊りを踊って見せた。踊りが楽しくてやめられず、母を困らせたという。母はその後、又吉さんを琉球舞踊道場へ通わせることにした。「母は自分で踊れなかったけど踊りが大好きだったから娘に習わせたのだと思います。」と語った。

糸満で厳しい舞踊指導

 沖縄に戻ってからは糸満に移り住んだ。又吉さんの母は糸満小学校の運動場の真向かいに雑貨店を開いた。糸満の港に届く品々を売って繁盛し、当時にしては割合裕福な生活だったという。

 最初の師匠・具志清健氏はとても厳しかった。

「私の目線が少しでも低ければ『ジノーウチテーウランドー(床に銭は落ちていないよ)』と叱り、目線が高ければ『エンチョーウランドー(天井にネズミはいないよ)』とまた叱る。稽古では何度もお尻を叩かれた」と振り返る。

 そんな厳しい指導でも全く気にせず、甲斐あって又吉さんは頭角を現し、小学生ながら様々な舞台へ駆り出された。やがて、具志氏の三線の師匠でウムニーターリーと呼ばれる又吉全敬氏に才能を見初められ「那覇の玉城先生の元に通ったほうがいい」と勧められ、浮島通り近くにあった玉城盛義道場へも連れて行ってもらうようになった。

最初の師匠具志清健氏(左から4人目)とウムニーターリー又吉全敬氏(同7人目)

玉城盛義師・玉城節子師との出会い

 糸満から那覇へ転居したのは中学1年の時。 又吉さんの後も四人の女の子を産んだ母は体調を崩し糸満で営んでいた雑貨店を閉め、家族7人で開南へ 移り住んだ。「父はバス会社に勤めており家族全員を養うのに必死で、生活が大変な時期だった」と述懐するが、それでも踊りをやめなかった。

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