連載小説・宮城亜茶子の生活と意見 第八回

 

 会社帰り、亜茶子はまっすぐ家に帰る気になれず、街をぶらぶら歩くことにした。仕事は平常運転で、波風のない一日だったが、なぜか神経が昂っていて、地に足が着いていないような心地だった。朝から降り続いている雨の影響もあるのか、傘の向こうに広がる世界が淡く、感傷的に映った。

 いつもGMW号で通っている道も、ゆっくり歩いてみると、いくつもの発見があることに気づかされた。この間まで更地だった場所はいつの間にかコインパーキングになっていて、馴染みの街角には新しい居酒屋がオープンしていた。一番驚いたのは、久しぶりに買ったファイブミニの色がオレンジからピンクに変わっていたことだった。

 久茂地川に沿って歩いているとき、亜茶子はふと、那覇の街とパリの中心部を重ねてみたら面白いかもしれない、と思った。自粛期間中、フランスの旅行ガイドを眺めながら空想旅行を楽しんでいたので、パリの大まかな地図は頭に入っていた。久茂地川をセーヌ川に例えるのは強引な気もしたが、走り出した空想は止まらなかった。

 遠くに見えるOTVの鉄塔がエッフェル塔だとすると、御成橋はアレクサンドル三世橋で、美栄橋はポン・ヌフ橋……職場は学生街のカルチエ・ラタンにあるということになる。厳密な位置関係に目をつむれば、牧志公設市場はマルシェ・バスティーユで、瀬長島は世界遺産のモン・サン=ミシェル……。歴史や文化の厚みはまるで違ったが、好き勝手に二つの土地を結びつける遊びをしていると、さっきまでのアンニュイな気分が少しだけ和らいだようだった。

 雨が強くなってきたので、閉店していた『たそかれ珈琲』の軒下で雨宿りすることにした。ヨーロッパからの観光客らしい若いカップルが目の前を通り過ぎ、川の向こう岸では飲食店の電飾看板が灯りはじめていた。そのうち、空想が大きく膨らんで、亜茶子は留学でパリに来ている二十歳の女学生へと変身した……

 日曜日の午後、カフェ・ド・フロールのテラス席で『星の王子さま(原文)』を読んでいると、死角から現れた黒いジャンパーの男にバッグをひったくられる。ヴォルール(泥棒)! オ・スクール(助けて)! 亜茶子の叫びを聞きつけて、通りを歩いていたニット帽の青年がひょいっと足を伸ばし、逃走する犯人を転ばせる。そうしてバッグを奪い返し、亜茶子の元へ届けてくれる。メルスィ(ありがとう)。青年のライトグリーンの瞳と弾けるような笑顔を見て、トキメキの魔法に掛かった亜茶子は恋に落ちる。

 青年の名前はピエール・アシバリーニ。コンコルド広場で大道芸人をしている。二人は頻繁に会うようになり、親交を深めていく。「僕はね、自分の芸で世界中の人たちを笑顔にしたいんだ」。夕暮、噴水の前に座って熱っぽく夢を語ったあと、ピエールは一輪の赤いバラを取り出して亜茶子にプレゼントする。目の奥を覗きこまれながら「ジュ・テーム」と言われて、亜茶子は全身の細胞が沸騰したような感覚に包まれる。

 初めての夜、初めての朝、初めての喧嘩、初めての仲直り……。共に過ごす時間の中で、二人の関係はさらに深まってゆく。ただ会いたいから会い、好きだから一緒にいる。そんな、打算のない、勢いまかせの恋。一ヶ月も経たないうちに、亜茶子は結婚してパリに住む自分を想像するようになる。

 しかし、幸せな日々が続いていた矢先、亜茶子は語学学校の同級生・アンジェリーナからピエールが女と手を繋いで歩いていたという目撃情報を聞く。見間違いよ、と否定する亜茶子。が、最近のピエールが妙に素っ気なくなっていたのは事実だった。数日後、亜茶子はピエールにその話をしてみる。「誤解だよ。あの子は昔からの友達でね、フランスでは日本と違って頻繁にスキンシップを取るんだ。文化の違いさ」。饒舌に話すピエールの小鼻が不自然にピクつくのを見逃さない亜茶子。相手が何かを隠していることを確信しながらも、愛しさのあまり、問い詰めることができない。

 大道芸人のピエールといえばジゴロで有名さ。あいつは昔から女癖が悪いんだ。パティスリーやブーランジェリーやビストロで、亜茶子は聞きたくない話を次々と耳にする。ちょうどその頃、母・登志子からポーク缶やレトルトのソーキ汁が入った小包が送られてくる。小包の中には手紙も入っていて、そこには「お父さんは毎朝、仏壇に向かってあなたの無事を祈っています」と書かれてある。沖縄を思い出して涙しながら、亜茶子の心は激しく揺れ動く。

 そして、運命の午後。雨のムフタール通りを歩いていると、街灯の下でピエールが知らない女と濃厚なキスをしている場面に遭遇する。激昂した亜茶子は我を忘れて駆け寄り、傘とバッグを二人に投げつけ、ピエールの頬をパチンと張る。女は亜茶子を睨みつけ、ピエールに暴言を吐いて去っていく。笑ってごまかそうとするピエールに、亜茶子は二発目のビンタを食らわせる。

 あれで友達だって言うの? 私にジュ・テームって言ったのは、全部ウソだったの? この期に及んで苦しい言い訳をするピエール。しかし、鬼気迫る亜茶子の追及に得意の饒舌もしどろもどろになる。(……永遠のように長い沈黙)。瞬間、恋の魔法がするすると解けて、亜茶子は別れの時がやって来たことを悟る。オ・ルヴォワール(さよなら)、ピエール。オ・ルヴォワール、パリ。私を成長させてくれたフランスよ、オ・ルヴォワール……

 ぐぅ~、とお腹が鳴って、亜茶子は三十五歳のOLに戻った。雨脚はまだ強く、しばらく止みそうになかった。悲劇のヒロインみたいにずぶ濡れになって街を歩いてみようか、と思ったが、社会人の常識がそれを許さず、普通に傘を差してユニオン前島店へ向かうことにした。

 歩きながら、年を取っちゃったのかな、と亜茶子は思った。これから先、燃えるような恋に身を投じることはないのかもしれない。しかし、その一方で、完全に未来のロマンスを諦めていないこともまた事実だった。……ぐぅ~。花より団子の自分に苦笑して、数日前に惣菜コーナーで見掛けた〈国産野菜と本格チキンの黒酢南蛮合え〉を買おうと決めた。家に帰ったら、お風呂に入って、『アメリ』でも観ようか。……買い置きしていたポテチ、まだあったっけ?

(続く)

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野原誠喜

野原誠喜

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1986年沖縄生まれ 詩人・小説家
第40回琉球新報短編小説賞受賞
詩集『燃えた城のある街で』

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