馬毛島秘録 知られざる内幕①
- 2020/6/5
- 政治
鹿児島県の種子島の約10㎞沖に浮かぶ馬毛島という無人島がある。東京ドーム175個分にあたる8.2㎢の面積があり、無人島としては国内で2番目に大きい。
政府がこの島の地権者との10年以上に及ぶ長い交渉の末に買収契約を交わしたのは昨年11月のこと。この島には米軍空母艦載機の訓練場が整備される予定で、現在は防衛省が着工に必要な環境調査や土質・地下水調査などを進めている。
この島を沖縄県知事だった翁長雄志氏が視察に訪れたのは、契約が交わされる3年以上前の2016年7月のことだ。那覇空港から鹿児島県空港まで飛行機で移動し、鹿児島空港でチャーターしたヘリに乗り換えて到着した。地元・鹿児島の新聞やテレビの記者らが取り囲む中、出迎えたのは、当時この島の99.6%の土地を所有していたタストン・エアポート(以下、タストン社)代表取締役の立石勲氏だ。
マイクロバスに乗り、島内を見て回る翁長知事に立石氏は図面を示しながら、いかにこの島が滑走路建設に適しているか力説していた。
そうなのである。この島は政府と契約を交わすはるか以前から立石氏が独力で滑走路の整備を進めてきた場所なのだ。南北に4200メートル、東西に2400メートルの滑走路を建設するとした図面に基づいて、森林を伐採し、重機で岩盤を削った。上空から見ると、それはまるで巨大な十字路のように見える。
翁長知事が視察に訪れたのは、おおさか維新の会から米軍普天間飛行場の早期運用停止に向けてこの島を米軍機の訓練地として活用してはどうかと提案を受けたためだ。普天間飛行場の名護市辺野古への移設に強く反対していた翁長知事に対しては、政府関係者の間で「代案もなく反対しているだけ」との声も上がっていた。県外移設の候補地を探る姿勢を示したいとの意向もあったのだろう。
ただ、この翁長知事の視察は波紋を呼んだ。地元には連絡をせずに視察をしようとしたことから、馬毛島の地元にあたる西之表市の市長は「事前に連絡がなかったことは遺憾」、「視察は住民の不安を増幅しかねない」などとする文書を知事宛に送った。地元の市民団体からも反発が強く、視察の様子を取材していた鹿児島の記者たちからも地元の反発をどう考えるのかと質問が相次いだ。
それに対し翁長知事はこう心情を吐露した。
「日本全国がみんな(米軍基地に)反対ですから沖縄にそのまま置いとけという話になっているんですが、県民にとってはあまり大きい重圧です。悲しい事件もありますし、もうちょっとみんなで考えてちょうだいよ、というのが県民の気持ちです」
この時は日本の国土の0.6%しかない沖縄県に米軍専用施設の74%が集中しているとも鹿児島の記者らに説明していた。なぜ痛みを分かち合ってくれないのか、という思いであったのだろう。
国家石油備蓄基地からレーダーサイト誘致まで
その後も馬毛島は、普天間飛行場の米軍機の訓練移転先としてしばしばその名が上がる。沖縄の基地負担の軽減に向けた動きとも大きく関わりを持つこの島の歴史は、先ほどのタストン社の代表取締役である立石勲氏を抜きにして語れない。まず、立石氏がこの島の〝オーナー〟となるまでの歴史を振り返りたい。
馬毛島の周辺の大隅海峡ではトビウオ漁が盛んで、かつてはここにそのための漁業基地があった。地形は平坦で、島で最も高い岳之越と呼ばれる高台でも71メートルほどしかない。もともと住民はほとんどいなかったようだが、戦前に平坦な地形を生かして羊や乳牛を飼育する牧場が開かれ、戦時中には、爆撃のために南方から九州方面に飛来する米軍機を監視する海軍のトーチカが岳之越に建設された。このトーチカはいまもほぼ当時のままの姿で残っている。
ピーク時の1959年には528人の住民を数えたが、鹿による食害や害虫の発生などによる農業の不振で人口が急減し、荒れる一方となった。そこに目をつけたのが、「金屏風事件」などのスキャンダルで悪名高い平和相互銀行である。1973年に開発会社・馬毛島開発を設立し、リゾート開発をうたって島の土地の買い占めに乗り出すと、住民の流出に一層の拍車がかかるようになる。
平和相銀がどこまでリゾート開発をする気があったのかは定かでない。実際に進めたのは国家石油備蓄基地の誘致。当時はオイル・ショックを受けて石油備蓄の必要性が叫ばれていた。だが、同じ鹿児島県内の志布志湾に備蓄基地の建設が決まると、次は自衛隊のレーダーサイトの誘致へと転じる。この辺りから話は一気にきな臭くなり、レーダーサイト誘致のための政界工作として、右翼活動家の豊田一夫を通じて20億円を永田町でばら撒いたと噂された。
島の99.6%を所有
乱脈経営のツケで経営が悪化した平和相銀が、1986年に当時の住友銀行に吸収合併されると、島の開発は宙に浮いてしまう。二束三文で売りに出されていた開発会社の経営権を1995年に取得したのが、都内で建設会社を経営していた立石勲氏である。在京の鹿児島および宮崎出身者の親睦会である三州倶楽部の場で打診があったという。
立石勲氏自身は、遠洋漁業の基地として知られる鹿児島の枕崎出身。少年時代には近くの知覧飛行場から特攻隊が出撃するのを見て育ったという。遠洋マグロ漁船の船乗りとなり、船内で設計を独学で学び、30歳を前に船乗りを辞めて陸に上がり、都内で建設や採石の会社を立ち上げたという異色の経歴の持ち主だ。立石氏の会社が得意としたのは、滑走路建設のための埋め立て工事。羽田空港のC滑走路建設や出雲空港の滑走路延長のための宍道湖埋め立てなどを手がけ、業界で名を馳せた。
立石氏が経営権を取得した当時、開発会社が所有する馬毛島の土地は、島全体のおよそ6割ほどだったという。その後、10年以上かけて島の99.6%の土地を所有するまでに買い増した。なかには、かつて流行った原野商法によって100坪ずつに細分化されたたために、地権者が大阪や京都に数十人もいるような区画もあったが、一軒一軒訪ねて歩き買い取って回ったと自ら振り返る。
馬毛島のオーナーとなった立石氏のもとには、東京電力と深い関わりを持つフィクサーとして知られた人物が使用済み核燃料の中間貯蔵施設の建設構想を持ち込んできたり、鹿児島県知事からは日本版スペースシャトルと言われた無人宇宙往還機「HOPE」の着陸場の誘致構想が持ち込まれたりしたこともあったが、いずれも実現することはなかった。
この島をめぐり怪しげな開発構想が次々と浮かんでは消えるなかで、立石氏本人が思い立ったのは、貨物専用のハブ空港の建設である。
それはアメリカ旅行中に南部のメンフィスの国際空港を視察したことがきっかけだった。メンフィス国際空港は、世界最大手の物流サービス企業・フェデックスの本拠地であり、貨物の取扱量も世界最大級のスーパーハブ空港として知られる。その壮大なスケールに圧倒されながらも、航空貨物の取扱量がアジアで爆発的に増えると見込んだ立石氏。自社の大型重機を次々と島に持ち込み、独力で滑走路を整備するための工事に取りかかった。その突拍子もない行動力に周囲は振り回されることになる。
(続く)