00年代沖縄インディーズブーム再考(下)ヒューマンステージと共に
- 2020/12/19
- エンタメ・スポーツ
この頃には、沖縄のバンドが一堂に会する「ピースフルラブロックフェスティバル」「沖縄音楽市」「沖大祭」などのイベントはほぼ確実に満員御礼状態となっていた。バンド同士の一体感もスゴかった。モンパチが紅白歌合戦の出演を辞退して、仲間同士でライブしたのはヒューマンステージだった。
山田さんは「年末のこのライブのために1年間を過ごしているようなものでしたから。これに出ないでどうするという感じでした。紅白辞退したっていうのは何年も後に知りましたけどね」と笑う。
客足の陰りに意外な理由
それでも、沖縄インディーズブームやライブハウスの集客に陰りが出て来た。それぞれの事務所が所属アーティストとの契約を終えるなどのタイミングもあったが、山田さんが語った理由の一つは、意外なものだった。「リーマンショックです」。
「(2008年の)リーマンショックで県外のバンドがツアーで沖縄に来ることが減ってきて、ライブハウスから客足が遠のいた部分もあります。あとは、音楽に触れる場の多様化ですね。カフェとかでもライブをする文化が出てきてお客さんが分散してきました」
そんな中、いわゆる当時の“沖縄インディーズブーム”の終盤に世に出てきたのがかりゆし58だった。FM沖縄を中心に県内ラジオ各局で「アンマー」が次々と流れていた。
「アンマーは名曲ですよね。あれを生み出したのはすごいなぁと思います」
新たなバンドブーム
2010年代は、00年代に比べると沖縄のライブハウスシーンは集客が難しくなってきていた。ネットの発達でリスナーの嗜好が幅広くなってきたことや、娯楽の多様化などが背景にあるとも考えられる。一方でHIPHOPシーンは沖縄から全国的にも有名なラッパーが多数飛び出すなど、日本全体をけん引している存在となっていった。観客はライブハウスからクラブに流れた、といっても過言ではなくなっていた。