コザに感じる二色のカラー
- 2020/10/18
- 社会
前回、(『コザ』という不思議な地形に隠れた沖縄ならではの歴史https://hubokinawa.jp/archives/874)で沖縄市の旧称『コザ』という名前の由来について書いてみたが、未だネオンの光がよく似合うあのコザのディープさには、さらにいくつもの要因が複雑に絡み合って生み出された特殊地場的な背景があるのである。
太平洋戦争の末期、アメリカとの沖縄地上戦を目前に控えた日本軍は、現在の米軍嘉手納飛行場の地に『日本陸軍・沖縄中飛行場』を建設する。
しかし、1945年4月に米軍が沖縄本島に上陸すると、飛行場はすぐさま占領され、その後はアメリカ軍の日本本土へ向けての出撃用拠点として運用されることとなり、時代とともにその機能を順次拡張してきた。そして今では『キーストーン(要石)』とも呼ばれる極東最大の空軍基地となり、その存在感を誇示し続けているというわけなのだ。
アメリカ軍の沖縄上陸後、すぐに嘉手納飛行場付近にはいくつもの難民収容所や捕虜たちのための行政施設ができ始め、特に嘉間良エリアはそれこそ軍基地の門前町、そして越来、コザの町の中心地として発展していくこととなるのだ。
しかし戦後すぐの時代というのは、もちろん治安もあってないようなもの。アメリカ軍人たちの中には、沖縄の地が彼らの占領地に過ぎないという思い上がりもあり、自らの欲に任せ現地の婦女子に襲いかかるという事件が後を絶たなかった。
地元は軍に度重なる要請を掛け合うが、軍としてもその当時の時代背景もあり、血気盛んな若者の欲求を簡単にコントロールできる術もなかった。
そこでこの一連の事件を大きく問題視した時の越来村長、城間盛善氏は、米軍による蛮行を収めるためには犯罪抑止となる特飲街(売春宿)を敢えて整備するべきだと考え、軍および地方との協議による協議を重ねた結果、1950年、八重島地区に通称『ニューコザ』と呼ばれる裏町、いわば黙認の『風俗街』を創り上げたのであった。