【慰霊の日】与那原町で戦没者の名前を読み上げる催し

 

 77年前、沖縄では日本で唯一民間人を巻き込んだ地上戦が繰り広げられた。昭和20年3月下旬に慶良間諸島から始まった沖縄戦では日本軍と、米軍を主体とした連合軍の激しい戦いとなり、6月23日に牛島満司令官と長勇参謀長が自決するまで組織的抵抗は続いた。

 この戦いで24万人あまりの命が失われた。戦争を二度と起こしてはいけない。そんな中、もっと身近に「戦争と平和」について考えてもらおうと与那原町では町内の戦没者1971名の名前を、公募で集まった小学5年生から83才までの有志32名で読み上げる催しが23日に行われた。

生きていた証を感じてもらいたい

 この催しは、沖縄戦を鮮明に描いた映画「ドキュメンタリー沖縄戦」の上映会が与那原町の上の森かなちホールで開かれたのにあわせて行われたもので、映画上映実行委員会事務局の村松志門さん(61)はこう話す。

 「実は戦没者の名前の読み方については、ふりがなはついておらず、正直正しいかどうかわかりません。でも、与那原の場合、町史編纂室のスタッフが地元であり、昔から地域をよく知ってる人たちが多いので、読み方は限りなく正解に近いと思う。名前一つ一つがひとりひとりの命なので、生きていた証を伝え感じてもらいたいと思いました」

 追悼の気持ちを込めてひとりひとりゆっくりと読み上げられる名前。始まる前まで白い歯がこぼれていた子どもたちからも笑顔が消えた。

祖父母・兄・親族の名前を読み上げる新垣幸子さん

 読み手に志願したひとり、新垣幸子さん(68)は祖父母と兄、親族7名を沖縄戦で亡くした。
「とても厳かで、まるでそこにいる様な気持ちになった。あなたたちは確かに存在していましたよと。祖父母の年齢をみたら50代で、今の私より若かった。色々なことができただろうに。与那原は3人に1人が亡くなった中、生き残った人たちのおかげで私は生きている。奇跡の命。本当に戦争は愚かなこと。平和を伝えるのがこれからの私の役目ですね」
 今、生きていることにそう感謝した。

「ご飯が食べられてたくさん眠れる平和がいい」

 南城市佐敷小学校5年の平良陽愛さんも参加した。平良さんは曽祖父母から戦争の話を聞いている。曾祖母は一家でサイパンに出稼ぎに行き戦争を体験、戦後日本に帰国しているそうだ。「一人一人心を込めて名前を呼んだけど、つらくなった。戦争はとても怖い。ご飯が食べられてたくさん眠れる平和がいい」と静かに話した。

自ら応募した知念幸成さん

 与那原中学校1年の知念幸成さんは、「亡くなった人の名前を呼ぶことで、こんなに苦しくて辛いことがたくさんあったことを忘れないようにしたかった」と応募した。およそ2時間半かけて全員を読み終えたことで「こんなに大勢の人が亡くなっていたのを実感して悲しくなった。何があっても取り返しがつかない戦争はやってはいけない。みんなが譲り合う争いのない社会になって欲しい」と願いを込めた。


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