訴え続けた地位協定改定 前衆院議員の照屋寛徳氏を偲ぶ
- 2022/4/21
- 政治
衆参両院で国会議員を計24年務めた照屋寛徳前衆院議員が4月15日、がんのため死去した。享年76。18日に営まれた葬儀には約2000人が駆けつけ、別れを惜しんだ。沖縄の立場にこだわり、護憲や不戦、日米地位協定の改定を訴え続けた政治家だった。
ユーモアと切れ味の鋭さ
生まれは1945年7月、サイパンにあった米軍の捕虜収容所だ。著書や国会質疑では自身を「捕虜が産んだ捕虜であります」と紹介した。
1歳で沖縄に引き揚げ、米軍統治下の沖縄で前原高校をへて琉球大学を卒業し、72年弁護士に。米軍による県道104号越え実弾演習に反対する「喜瀬武原闘争」では、キャンプ・ハンセンに立ち入って逮捕された県民の裁判で弁護を担当。後に嘉手納基地の「爆音訴訟」や家永教科書裁判の弁護団にも加わり、人権派弁護士として活動の場を広げていく。
1988年、県議に初当選。2期目の途中で国政転身を決意し、95年の参院選で初当選を飾った。だが、再選が懸かった2001年参院選で落選を味わう。
政治家としての真骨頂はここからだ。03年、選挙区が再編された沖縄2区から社民党公認で出馬し、衆院初当選。以後、党勢低迷なぞどこ吹く風とばかりに17年衆院選まで6期連続で当選し、沖縄2区で社民の議席を守り続けた。21年10月の衆院選で後継にバトンタッチした。
ゆっくりした口調ながら、その言葉はユーモアに富み、切れ味の鋭さがあった。選挙で対抗馬がキリンをアイコンに据えれば、照屋氏は「酉年の私はタウチー(闘鶏)だ」と演説をぶち、聴衆を笑わせた。
「いつも先頭に立っていた闘士」
国政で一貫して訴え続けたのが、日米地位協定の改正だった。初当選直後の1995年には、米兵による少女暴行事件が発生。その後も問題が起こるたびに、すかさずそれを国政で取り上げ続けた。
国会の委員会質疑として最後となった2020年11月の衆院安全保障委員会でも「日米地位協定は不平等、不公平で、ウチナーンチュの人間としての誇りと尊厳を傷つけている」と訴えた。それだけに、21年9月に志半ばで引退した際には無念さもにじんだ。
照屋氏の死去を受け、高校の後輩に当たる玉城デニー知事は「県民の将来を常に案じ、現状を切り開くためにいつも先頭に立っていた闘士だった」とのコメントを発表した。