台湾二・二八事件 失踪した父の無念を晴らす

 
著書を手にする青山惠昭さん

 戦後間もない台湾で起きた「二・二八事件」。中国大陸で国共内戦に敗れ台湾に逃れた蒋介石の国民党政府軍(国府軍)が住民に銃口を向け、犠牲者は10万人を超えるとの試算もあるが、実数は今もって定かではない。事件に外国人も巻き込まれていたことはあまり知られていなかった。外国人初の犠牲者として「認定賠償」を勝ち取った青山惠先(えさき)さん(当時38歳)の長男・惠昭さん(78)が、父の足跡と事件の真相を追い続けた歳月をつづった『蓬萊の海へ』(ボーダーインク)が話題になっている。史料文献を読み込み、父とゆかりのある地を訪ねて4年がかりで書き上げた。

軍隊に捕まり縛られ無理やり連れていかれた

 二・二八事件は1947年2月27日夜、台北の街頭で闇たばこを売っていた女性を警察官が摘発。警察官はたばこや売上金を没収しただけでなく、命乞いする女性に暴行を加えた。これを見ていた住民たちは翌日、市庁舎になだれ込み抗議の声を上げた。

 抵抗運動は台湾全土に広がり、これを鎮圧するために国府軍は中国大陸に援軍派遣を要請した。軍隊が上陸したのは3月8日、台湾北部の要衝基隆港。当時、琉球人が多く居住していた社寮島(現・和平島)はその対岸にある。

 物心ついた惠昭さんが「父の最期」を聞かされたのは、母親・美江さんの実家のある国頭村で暮らしていた頃だ。石垣島に引き揚げていた父・惠先の従兄の妻から大事な伝言を頼まれたと、社寮島で従兄夫婦と親しくしていた中年女性が一日がかりで糸満から訪ねてきた。

 「鹿児島から渡ってきたばかりの惠先さんは、社寮島で蒋介石の軍隊に捕まり縛られ、無理やり連れていかれた」

 後に惠昭さんが台湾で得た台湾人被害者家族の証言とも一致する。「(義弟は)琉球人一人と、両手を背中に縛られ3月11日に社寮島砲台跡に連れ去られ、13日に殺された」

 ベトナムに出征し、一度は佐世保浦頭港に帰還した惠先さんが、鹿児島から基隆行きの闇船に乗ったのは、まだ社寮島に住んでいると思い込んでいた美江さんと惠昭さんを連れて帰ろうとしたからだ。美江さんと惠昭さんは既に引き揚げ船に乗っていた。

 人生に「たら・れば」は無粋だと思いながらも、「惠先さんは闇船に乗らず、鹿児島で待っていたら」とあえて問うてみた。「そうなんですよ、そうなんですよ」と繰り返したが、そのことは惠昭さんが生涯背負い続けてきた十字架だったのかもしれない。

「外国籍」扱いで制度的差別も

 惠昭少年は畑を耕し家畜を世話して、軍作業で日銭を稼ぐ美江さんを支えた。今なら立派なヤングケアラーだろう。「ゆいまーるで親戚や隣近所、学校の先生が助けてくれました。そこは沖縄の良いところです」(惠昭さん)

 高校を卒業し那覇に出て公的機関で臨時職に就き、正式採用に臨もうとした惠昭さんにある壁が立ちはだかる。本籍が父・惠先さんの出身地である与論村になっているのだ。戦後、奄美諸島以南は米占領下にあったが、1953年12月与論島以北は日本に復帰したため、惠昭さんは「非琉球人」として「外国籍」扱いとなった。

 「母は父の最期を聞かされてから体調を崩して仕事を休むこともありました。琉大在学時にも入院したので、休学して臨時教員として働きました。奨学金があれば休学せずに済んだはずです。公務員試験を受けられない、国費選抜試験の受験資格がないなど、制度的な差別がありました」

 台湾から引き揚げ船に乗る時は、奄美以南が米占領下にある「琉球人」として、日本人終了時よりも半年遅れて乗船し、奄美復帰後は「与論村本籍者」として不利益を被った。

 歳月が流れて1987年7月、台湾で発令されていた戒厳令が解除され、台湾メディアもこれまで沈黙してきた二・二八事件を取り上げるようになった。89年には事件を真正面から取り上げた「悲情城市」が大ヒットした。90年には初の本省人総統も就任した。惠昭さんは県立図書館に通い、47年3月以降の各紙を調べ上げた。「台湾各地に暴動」「台湾暴動五千虐殺」などの文字に戦慄を覚えた。

3度目の申し立てで認められる

 台湾側に「認定賠償」を申請するために93年8月、那覇家庭裁判所へ父・惠先さんの「失踪宣告」を申し立てた。翌94年8月30日に審判が確定した。台湾側の窓口である「財団法人二二八事件記念会」(基金会)に申請したのは、世紀が変わった2011年3月24日付で、正式受理されたのは13年8月2日だった。

 「却下」を知らせる書簡は14年12月17日に届いた。理由は大きく二つあったと惠昭さんは考える。「国際法上の平等互恵の原則により日本人には適用できない」「国家賠償法及び特別法である『二二八賠償条例』では外国人には適用できない」

台北市の二二八和平公園。二・二八事件に由来する(台湾観光局サイトから)

 不服を申し立てるため、年明けの15年1月7日に日本語で、同10日には中国語の訳文を発送した。同年7月22日、毛治國行政院長(首相に相当)の署名で那覇分処を通してまたも却下された。

 3度目は台湾の法学者・李明峻氏、薛欽峰弁護士らを代理人として15年9月15日、基金会陳士魁理事長を相手取り、台北高等行政法院に行政訴訟を起こした。提訴理由は以下の3点。

 「外国人だから適用できないのは、世界的人権意識にもとる」「日本政府が台湾籍元慰安婦と同旧日本兵の戦後補償に応じてないからとしているが、これは負の連鎖であり報復措置である」「真相を究明し、人権に国境はないという台湾の良識と良心を世界に示すべきだ」

 外国人にも事件の被害者がいたことが分かり、台湾国民の関心も高く、記者会見は大々的に報道された。翌16年2月24日、台北高等行政法院は被告の基金会に600万台湾ドル(約2017万円)を支払うよう命じた。基金会は上訴を断念すると発表した。

闘いが終わった訳ではない

 惠昭さんは逆転勝訴したが、闘いが終わった訳ではない。やはり申請を却下された与那国島出身の仲嵩實さん(当時29歳)の長女・徳田ハツ子さん(84)と、石底加禰さん(当時39歳)の三女・具志堅美智恵さん(80)の再申請の支援に奔走する。

記者会見した仲嵩實さんの孫・當間ちえみさん(左)、具志堅美智恵さん(右)

 仲間や同志の支援はあっても公的な支援に頼れず、孤軍奮闘してきた惠昭さんが訴えるのは、国と県、そして国民一人ひとりの幅広い理解と支援である。

台湾228沖縄会では支援を呼び掛けている。
問い合わせ:青山惠昭さん 電話090-1947-8179 FAX098-870-6910 

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友寄 貞丸

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伊江村出身。1990年から主に中国、台湾の取材執筆活動を続ける。2014年11月Uターン。著書に『雲南哀楽紀行』(愛育社)など。国境を越えても一線を越えない旅と取材を信条とする。

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