安保の見える沖縄 フォトグラファーがみた基地①

 

 2010年、日本各地に点在する在日米軍を取材した。

 横田、厚木、三沢、横須賀・・・・中でも在日米軍の約7割が集中している沖縄で、在日米軍とは何か答えを探し求めてみた。

 ハリネズミのような島、沖縄。そこにある米軍基地の現状は、取材した時と今も変わっていない。

「ここのゴーヤもカボチャも芽を出した時から、戦闘機の轟音につきあって育ったから特別な味がするよ」

 おとうは枝からもぎ取ったカボチャを撫でながらそう言った。フェンスの向こうでP3C対潜哨戒機のエンジンを絞りっぱなしにしている轟音が鼓膜を震わせ、排気ガスが嗅覚を刺激する。それにしてもすさまじい音だ。日本の自衛隊のような遠慮というものがまったくない。

 道の駅かでなの前の県道と基地のフェンスとの間に沿って狭い畑がある。

 そこから左を向けば、〝安保の見える丘〟がある。そもそも丘といっても普通に想像する小高い丘ではなく、基地の中が覗ける程度に盛り上がった土地をかさ上げしてコンクリで整備したものだ

 地元の知り合いのMさんは「あの丘の出来る前、もう少し離れた場所に住民が勝手にスコップで盛り土して〝サンパウロの丘〟と名づけ、基地を覗き見していた。そのサンパウロから、今ある場所に目をつけた住民達がダンプカーを引っぱって来て盛り土をして,さらに大きな丘、通称“安保の見える丘”を造ったのよ」と話すが、よく調べてみるとこの話は怪しい。しかしそこはそこ、沖縄人の反骨的おおらかさが作る話。目くじらをたてたりはしない。

 だが、今はこの丘よりも県道前に4階建ての道の駅かでなができて、この屋上から、観光客でも誰でも基地の滑走路を一望に見渡すことが出来る人気スポットになっている。

 米軍嘉手納基地は3700メートルの滑走路が2本ある。巨大軍事基地である。望遠レンズで覗くと揺れる陽炎の先に戦闘機が止まっており、整備員たちがだるそうに作業をしていた。地理的に朝鮮半島や中国大陸に近く、アメリカ軍の戦略的拠点とした第一級基地である。いざとなればあれば、弾かれたように反応して、特殊偵察機RC-135SやE-8Cがあわただしく離陸していく。

 そんな動きをカメラで追い続ける連中がいる。彼らは屋上にプロ用のビデオカメラを据えて朝から夕方までじっと滑走路を見つめる。中には民放テレビ局と年間契約しているカメラマンもいる。

 地元のジャーナリストによると「彼らはいつも滑走路の飛行機の動きを見ているから、離着陸する飛行機の所属部隊など詳細なプロフィールはもちろん、どこから来てどこへ飛んでいくのもよく知っているよ。ひょっとしたら基地のアメリカさんより知っているかもしれないね」

 道の駅かでなにも本土からくる観光客がひっきりなしにやってくる。

 駐車場には騒音測定器が置かれている。客はまず安保の丘に立って滑走路を覗き、県道を渡って、4階建の道の駅かでなの屋上まで昇る。備え付けの大型双眼鏡に100円玉を入れて基地を覗き、やがて見飽きて下へ降りる。

 店内には戦闘機のTシャツやキーホルダーなどミニタリ―グッズが売られ、嘉手納ならではの道の駅だ。

 ひっきりなしに観光客が来て、けっこう儲かってそうだが、反して基地フェンスの真近に暮らす人にとって騒音はたまらない。

 道の駅近くに住むHさんの家を訪ねた。Hさんは鉄鋼所を経営している。ちょうど火花を散らして何かを溶接していた。3階の屋上に登らせてもらう、目の前に駐機場があった。

 Hさんは「戦闘機の離陸は喧しいが、直ぐに騒音は遠ざかる。大型機のエンジンの空吹かしや垂直離陸機ハリヤーの喧しさは堪らない。慣れているつもりでも、“何とかしてくれ”と叫びたくなる時もあるね。この近くに幼稚園があるけど、窓が3重ガラスになっているよ」

 嘉手納基地を一周した。基地を取り囲むように道路が走っており、車の往来が尽きない。広さに驚く。離着陸のコースの真下で飛行機を待ってみる。すると見覚えのあるF15戦闘機やC130輸送機がひっきりなしに飛んだり降りたり忙しい。偶然、164億円のステルス戦闘機F22ラプターが耳が痒くなるような激しい爆音を響かせながら、急上昇していった。ラプターが残した騒音は、“この基地の返還は絶対ありえません”という米軍の不動戦略のイントロのようだ。

 映像で初めて見た嘉手納空軍基地の当時と現在の様子大きく違う。

 1960年代後半、機体の腹いっぱいに爆弾を詰め込んだ戦略爆撃機B52が次々と、8基のエンジンから黒煙を吐きだしながら離陸して行く。彼らの目標は北ベトナム無差別爆撃だった。

 北ベトナムにすれば沖縄は敵地であった。

 当時の基地の様子を覚えているというMさんは

「子供の頃だよ。忘れられないのはキュ―ンという野太い金属音が絶え間なく耳の奥に届く。20機ぐらい連続して舞いあがって行くのを首が痛くなるまで見るんだ。煙を被った服はケロシンの臭いがする。1968年に離陸したB52が墜落事故を起して、島じゅうが大騒ぎになったのを覚えているよ」

 編隊を組んで毎日ベトナムへ爆撃に向かった。編隊の中には運悪く北ベトナムの対空ミサイルSAMに撃墜される連中もいる。乗員たちには飢えない程度の豚の餌以下の残飯を食べさせられる・・・そんなついていないクルーたちが少なからずいた。彼らは捕虜になるか、命を落とすか毎回覚悟して、嘉手納を飛び立ったのだ。

 だが、軍事技術の飛躍的発達はパイロットにより安全で、間違っても対空ミサイルで撃ち落とされるようなヘマをしない防御を保障された。とりわけF22もステルスという敵から見えない安全に裏打ちされ、効率よく敵を殺せるということだ。そんなハイテク兵器の時代になったんだと漠然と考えながらシャッターを押した

 さらにあれから10年、驚くべき進化を遂げた対人兵器がデビューした。無人攻撃機プレデター。その奇抜なスタイルからステルス機よりも、もっとずっと危険な香りがする。

 プレデターの航続距離は約3700キロ。空対地ミサイルを搭載し、アメリカ国内の基地から遠隔操作して、アフガニスタンの渓谷に潜むタリバンを見えない上空から、静かに一撃で〝処理する〟。

 実際に遠隔操作するパイロットは朝、基地へ出勤する。コーヒーを飲んで、ゆっくりとスクリーンに向かう。プレデターが捉え、送信されてきたタリバン兵の姿を目で確認し、発射ボタンを押す。一瞬にして攻撃は終了する。まるでゲームだ。

 そしてシフト勤務は終わり、笑顔で家庭に戻ると、幼い娘は「パパお帰りなさい」と父親の懐に顔を埋めるのだ。戦死して娘を泣かせることなく、革張りのシートに身を置いて攻撃ができる。それが今ある最先端の戦争スタイル。あの時見たF22はこんな化け物の登場のプロローグだったのだろう。

 本土復帰前の沖縄は日本であり、日本ではなく琉球であり、しかも高等弁務官が治めるアメリカそのものだった。

 コザの街には南ベトナムの泥沼から這い出して来た米軍のチャーリーたちは米軍オンリーのバ―でビールをラッパ飲みしながら、心底生きてて良かったという実感を味わっていた。客は決して志願兵でもなく、ましてやエリート将校でもなかった。兵役で徴兵された世の中の何かも知らない田舎の若者、また貧しい黒人兵士だった。

 もうもうと充満するマリファナの煙とジミ・ヘンドリックス、ピンクフロイドのヘビーロック。ロックとマリファナと酒はベトナム戦争の三点セットだ。

 さらにドラッグでハイになったチャーリーたちにうけたのが地元バンドグループ〝Condition Green〟という、Made in Okinawaのロックバンドだった。名前の意味はベトナム最前線軍が使う軍用語で最悪のカテゴリーコードを表す。

 もし彼らが天使のような軟な演奏をすると、たちまち米兵からギターのネックをへし折られたという。若い米兵にとってコザのバーはベトコンとの戦闘から一時的に逃れられる安全な最前線だった。

 沖縄の米軍支配が始まって以来、大小様々なトラブルが当たり前に起きていた。墜落事故、強盗、轢き逃げ、暴行・・・・島民の怒りは沸点を越えていた。そんな時、コザ暴動で起きた。原因は米軍関係者が起こした交通事故だった。米軍関係者が起した事件事故に琉球政府は手が出せなかったのだ。火炎ビンが飛び、車は燃やされた。

 沖縄を返せー!うちなーからヤマトへ、ヤマトからアメリカへ、アメリカからヤマトへ・・・・アメリカや日本本土の支配者に翻弄されるうちなーんちゅの運命的実存を切ない叫びで表現した歌詞の一節だ

 戦後、本土に駐留する米軍基地(立川、横須賀等)周辺には米軍相手の怪しい飲み屋街があった。しかし現在はそうした飲み屋は殆んどなくなった。

 現在の基地、例えば横田基地周辺には、ワッペン屋、米軍ミニタリーグッズ、米軍放出品屋、ピザ屋などアメリカ人相手の健全な店が並んでいる。

 だが沖縄では白人米兵相手の社交場として始まった特飲街が複数あった。コザ、現在の沖縄市の嘉手納基地ゲート前の交差点から少し歩くと吉原社交街があった。沖縄では歓楽街を社交街というのもおもしろい。特に吉原、真栄原社交街は有名だった。通称〝吉原〟とは東京の浅草の旧遊郭街吉原を真似た。

 暗くなって吉原へ足を向けた。吉原入り口と書いた看板を入ると、細い路地が左右に走り、タトゥー屋で私服のアメリカ兵が肩に入墨をていた。その並びに入り口を開け放った狭い店が軒を並んでいた。灯りで照らされた店の中が浮かび上がり、ミニスカートを穿いた若い女性がこちらをじっと見たり、目線を外したり微妙な動作をして、歩く客の気を引く。売春地帯での写真撮影は危険だったが、何度も歩いて米兵たちが店に入るのをこっそり撮影した。

 後でカメラを持たずにひやかし客を装い、店の女性と話をした。

 「ここは元々、アメリカさんをお客さんにしていたのですが、それではたちゆかないので沖縄人や本土からきたお客さんの相手をしています。でも、けっこう若いアメリカ人も来ます。彼らはとてもやさしく親切です。」

「儲かるって?そんなに儲からないでしょう」

 さらに話が基地問題におよぶと、

「沖縄の基地がすべてなくなると、沖縄は一日とした生きてゆけないんですよ。観光だけではね。沖縄すべてがアメリカに寄りかかっている。基地はアメリカさんが絶対手放す気はないから、永久に無くならない。基地がなくてどうやって沖縄は生きて行けというのですか」

 そう話す愛くるしい目の奥に、本音を出来るだけ悟られないようにという屈折観が覗いて見えた。

 そしてここを取材した年に吉原社交場は行政の浄化作戦で完全にとり潰されてしまった。

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