00年代沖縄インディーズブーム再考(下)ヒューマンステージと共に
- 2020/12/19
- エンタメ・スポーツ
ことし、26年間の歴史に幕を下ろした老舗ライブハウス「宜野湾HUMAN STAGE(ヒューマンステージ)」。沖縄のインディーズシーンを現場で見続けてきたヒューマンステージ元代表の山田義和さんと共に、その今昔を見つめる。
【関連記事】00年代沖縄インディーズブーム再考(上)ヒューマンステージと共に
専門メディアの後押しも活発に
この当時から沖縄県内外のバンドがコンピレーションアルバムを出すなどの動きが活発化してきた。「沖縄中毒」(2000年)「飛薬」(2001年)などはその代表格だ。
インディーズバンドを積極的に取り上げるメディアも充実していた。雑誌「月刊hands」は音楽のみならず、ファッションやアートなど沖縄のムーブメントを取り上げ、若者らはこぞって読んでいた。Handsに載ることを目標にしていたバンドも多かった。
handsの編集長である幸田悟氏がメインMCを務めた「灼熱音楽サロン DEEP BEAT」(沖縄テレビ、2001-2005年)の存在も大きい。アーティストのスタジオライブやゲストトークで、テレビを通して沖縄のバンドの“動く姿”を茶の間に伝えていた。
「沖縄の勢いのあるバンドが集まっていました。ネットで音楽を聴く時代じゃなかったですから、みんなでCDを回して聴いて。ネットが今ほど身近じゃないからこそ、沖縄の人が沖縄のバンドを聴いて、ライブハウスに足を運ぶという背景はあったかもしれません」
県内事務所の群雄割拠と切磋琢磨
「HYには驚きましたよね。ライブハウスを飛び越えてというか、路上ライブからスタートして全国的にも売れていきました。結構衝撃でしたね。『ライブハウスじゃなくてもいいんだ』と思いました。すごいバンドはいろんな所から出てくるんだなぁと。県外からもライブを見に来ますからね」
クライマックスエンタテイメントからリリースしたHYのインディーズファーストアルバム「Departure」は2001年に沖縄限定で発売し、中高生や大学生の層を中心にヒット。2002年の全国発売を前にしたイベントでは、宜野湾海浜公園屋外劇場が約2000人で埋まった。メンバーは当時高校生だった。モンパチに続いて若いバンドが全国区の人気を獲得していく中で、県内でもたくさんの音楽事務所が青田買いに躍起になっていた時期でもあった。
音楽事務所ごとの所属アーティストや売り出し方のカラーがそれぞれ出ており、一般のリスナーでさえも事務所やレーベルを意識して聴くほどになっていた。
モンパチやスカイメイツなど、地元のライブハウスシーンでしのぎを削っていたバンドが多く所属した「ハイウェーブ」、デビュー前のkiroroを擁し、HYを輩出、北谷町内に自前のライブハウスも持っていた「クライマックスエンタテイメント」、オレンジレンジやHIGH and MIGHTY COLORなど、スタイリッシュなバンドを多く揃えた「スパイスレコーズ」、沖縄本島北部のバンドをどんどん見出した「あじさい音楽村」などが代表格だった。
彼ら彼女らは、多くの場合で「沖縄を拠点にレコーディングし、全国でライブをし、中央のメディアに露出する」というスタイルを取り「沖縄インディーズ」という一つのブランド力を展開させていった。安室奈美恵やMAX、SPEED、DA PUMPを核としたアクターズスクール勢のダンス&ボーカルスタイルの盛り上がりから5年ほど時間がズレて後、バンドスタイルのミュージシャンも波に乗った。全国で売れるには沖縄でまず売れた方が早いといった判断で、県外出身ながら沖縄を拠点に音楽活動するバンドやミュージシャンも時折見られた。