沖縄の球団チア、プロデュースは海外でも活躍するこの人!(下)

 
4人組ダンスグループ「b-way」時代の吉田さん(後列中央)

ぎぼっくす:どうして台湾を選んだんですか? 

吉田さん:日本から近いからです。僕飛行機が苦手なんで飛行時間の短い台湾を選びました。 本当にただそれだけの理由なんです(笑)  アメリカには札幌で知り合った、マイケル・ジャクソンの振付師など知り合いがたくさんいました。 アメリカに渡ってたら、もしかするとマイケル・ジャクソンと仕事をしていたかもしれません(笑) 

札幌で知り合ったマイケル・ジャクソンの振付師、ジェフリー・ダニエルさんと

ぎぼっくす:でもそれよりも・・・? 

吉田さん:飛行機が怖かった(笑) 僕も若かったですね(笑) 

ぎぼっくす:台湾ではどのような活動をしていましたか? 

吉田さん:まずは台湾の各都市でダンスレッスンを始めました。スカウトしてくれた台湾の先生が年配の方でして、台湾が日本統治だった時代の教育を受けていたので日本語を話せたんです。そのおかげでコミュニケーションが密に取れて、色んな方たちがレッスンを受けてくれました。 
 そんな中で台湾の芸能界からも声がかかるようになりました。つんく♂さんプロデュースのアイドル「太陽とシスコムーン」のメンバーとして日本で活動していたRuRuや、ブラックビスケッツのメンバーとして活動していたビビアン・スーの振り付けを担当したりしていました。 

台湾で活動していたころの吉田さん

ぎぼっくす:台湾は親日国と聞きますが、生活してどのように感じましたか? 

吉田さん:本当に親日国ですね。日本統治時代に日本兵として戦っていたおじいさんが当時はまだいっぱい健在で、僕が日本人と分かるととても喜んで当時の話をしてくれました。当時の日本は台湾を大事な日本国の一部として考えていたそうで、インフラ整備や大学設置などで台湾を発展させていたそうです。なので日本人の事、みんな好きでしたね。台湾には1996年から2005年までいましたが、とても生活しやすかったです。 

ぎぼっくす:そうなんですね!その後はどうされたんですか? 

吉田さん:地元の札幌に戻って両親と半年間暮らしてました。日本語を忘れてしまっていたので、日本語のリハビリです(笑) 台湾の次は沖縄に行くと決めていたので2005年に移住しました。 

沖縄で吉田さんが見据えるのは…

ぎぼっくす:なぜ次なる拠点が沖縄だったのでしょうか?

吉田さん台湾で活動している時に「沖縄アクターズスクール」から声をかけてもらって、沖縄で1、2か月くらい子どもたちにダンスを教えていました。その時に沖縄の子たちのダンス技術や人間としての魅力に惹かれたんです。沖縄の子は凄いなと感動しまして、台湾でバリバリ活動している時でしたけど、その時から次は沖縄だって決めてました。

ぎぼっくす:沖縄とダンスの可能性には、どのようなものがあるとお考えですか?

吉田さん:自由な発想で様々なジャンルのダンスが広まる事で芸能の島沖縄のネクストジェネレーションが確立できると思っています。沖縄がアジアに於けるダンス文化の発信源になる事で新たな形のインバウンドに寄与できると考えます。

ぎぼっくす:最後に吉田さんの今後の目標を教えてください。

吉田さん:今行ってる活動を若手の子たちに引き継いでいきたいと思っているので、若手の人材の育成をしながらも、もっと色んな場で人々を笑顔にするエンターテインメントを作っていきたいですね。

Print Friendly, PDF & Email
次ページ:
1

2


関連記事

おすすめ記事

  1.  サッカーJ3のFC琉球が、第2次金鍾成(キン・ジョンソン)監督体制下の初陣を白星で飾った…
  2. 今季から琉球ゴールデンキングスに加入したアレックス・カーク(左から2人目)やヴィック・ローら=16…
  3.  FC琉球の監督が、また代わった。  サッカーJ3で20チーム中18位に沈む琉球は1…
  4. 戦前に首里城正殿前に設置されていたバスケットボールゴールを再現した首里高校の生徒ら=8月27日、那…
  5.  8月12日、浦添市のアイム・ユニバースてだこホール市民交流室は熱気が渦巻いていた。ステー…
宮古毎日新聞

特集記事

  1. 再びFC琉球の指揮を執ることになり、トレーニング中に選手たちに指示を送る金鍾成監督=19日、東風平…
  2. ヴィック・ロー(中央)の入団会見で記念撮影に応じる琉球ゴールデンキングスの(左から)安永淳一GM、…
  3. 沖縄県庁  沖縄県は、地域の緊張を和らげようと、4月から「地域外交室」を設置し、照屋義実副知…
ページ上部へ戻る ページ下部へ移動 ホームへ戻る 前の記事へ 次の記事へ