連載小説・宮城亜茶子の生活と意見 最終回

 

 低いテンションのまま歩いているうちに、いつの間にか桜坂劇場の前まで来ていた。ずらりと並ぶ映画のポスターを見ていると、ド派手な格好をした黒人男性の姿に目が留まった。『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレース』。気になって劇場内に入ると、上映時間は十五分後で、他にすることもなく、ノリでチケットを買うことにした。

 人気のない作品らしく、館内には亜茶子を含めて三人しか客がいなかった。始まった映画は映像が荒く、B級感漂う設定や演技に早くも後悔したが、千円以上払っているのだから観なきゃ損だと自分に言い聞かせて、頑張って集中しようとした。しかし、十分もしないうちに強い眠気に襲われて、段々と瞼が重くなっていった。・・・・・

 夢の中で、亜茶子はホアキン・フェニックスと夜景の見えるバーにいた。うっとりするようなムードの中、ホアキンは映画『her/世界でひとつの彼女』で見せた真剣な表情で話を切り出した。「実はね、僕は地球の平和を守るためにピンナギ星雲から来た宇宙人なんだ。この世界は今、玉城・金城・大城という三匹の鬼たちによって支配されようとしている。彼らの邪悪な計画を阻止するためには、亜茶子、君の力が必要なんだ。・・・・・一緒に戦ってくれるかい?」。予想の斜め上をいく告白に亜茶子は戸惑ったが、心のどこかで、こんな日が来ることを待ち望んでいた。

「もちろんよ、ホアキン」

 固くうなずいた瞬間、場面は急展開して、亜茶子は普天間飛行場を思わせる広大な敷地にテッポウユリ型のレーザー光線銃を持って立っていた。戦いはすでに終盤を迎えていて、ホアキンは玉城鬼のハイハイ攻撃と金城鬼の蛇拳によって殺され、怒りに駆られた亜茶子が二匹を倒したあと、最大の敵である大城鬼と対峙しているという状況だった。これまでとは次元の違う敵の圧力に、全身がぶるぶると小刻みに震えた。

 大城鬼のハラスメント念力は強烈で、亜茶子は激しい頭痛、めまい、吐き気、倦怠感、鼻水、かゆみ、アレルギー性皮膚炎に襲われた。〈・・・・・もう無理〉。極度のストレスで膝から崩れ落ちそうになったとき、遠くから懐かしいメロディと歌声が聞こえてきた。耳を澄ますと、それは渡辺美里の『My Revolution』で、段々と大きくなる音と連動するように、空中であらゆるハラスメントに苦しむ世界中の人たちの生き霊が光の玉となって渦巻き、ある一点に達すると、次々と亜茶子の体内に飛び込んできた。みるみるうちに力が湧いてきた亜茶子は、精神を集中させてしっかりと狙いを定め、テッポウユリ銃の引き金をカチッと引いた。

 凄まじい勢いで放たれた虹色の光線は、見事でっぷりと太ったお腹に命中した。

「うおぉおおお!・・・・・(大城鬼)」
「はぁああああ!・・・・・(亜茶子)」

 三分を超える壮絶な攻防の末、大城鬼は「この世にブラック企業と無関心がある限り、俺は永遠に不滅だぁあああ!」と叫びながら消えていった。・・・・・

 暗い空間の中で目を覚ました亜茶子は、しばらくの間、自分がどこにいるのかわからなかった。首や胸元は汗で濡れていて、心臓の鼓動は激しく打っていた。映画のエンドロールが終わり、明かりが灯ったとき、桜坂劇場で映画を観ていたことを思い出した。

 ふらつく足取りで劇場を出ると、湿気を多く含んだ夜気に包まれた。ホアキンや鬼たちの姿はどこにもなく、さっきまで強く握りしめていたテッポウユリ銃の感触も手から消えていた。これからまた平凡な日常が始まるのかと思うと、言葉にならない悲しみと寂しさが込み上げてきて、少し歩いた先にあった駐車場の隅で咽び泣いた。

「みゃー・・・・・みゃー」

 足元から猫の鳴き声がして顔を上げると、左耳の端が欠けたトラ猫が様子を伺うようにこっちを見ていた。人間に慣れているのか、しゃがんで手を伸ばしても逃げようとはしなかった。

「あんた、私を慰めに来てくれたわけ? ありがとうね」

 猫の頭や体を撫でていると、なんだかまた泣けてきて、今度は静かに涙を流した。

 ひとしきり泣いて、気分が落ち着いてきた頃、亜茶子は勝手に〈トラ吉〉と名づけた猫に今日の出来事を報告した。返事は全て「みゃー」で、サーターアンダギーおじさんのくだりではそっぽを向かれたが、話しているうちに少しずつ元気が出てきて、無駄な食欲まで湧いてきた。明日は月曜日で、仕事は面倒臭かったが、コロナで大変な思いをしている人がいることを考えると、贅沢なことを言ってはいられなかった。

 〈頑張れ亜茶子、負けるな亜茶子〉。心の中でそう呟いて、膝の関節をポキポキ鳴らしながら立ち上がった。そのままユニオンにビールとポテチを買いに行くつもりだったが、たこ焼き屋の横にGMW号を置いてきたことを思い出して、亜茶子はパチンと手を叩いて桜坂を下った。

(終)


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