戦前の与那国は台湾経済圏だった 花蓮市と姉妹都市今年で40年

 
花蓮市と与那国町の姉妹都市締結40周年の記念碑「約束」(花蓮市提供、以下同)

 台湾の花蓮市と与那国町は、1982年10月8日に姉妹都市協定に調印し、今年で40周年となる。これまでに花蓮市からは中国語教師の派遣、双方で小・中学生の修学旅行事業を実施。教育面での交流や災害時の支援などを中心とした、姉妹都市関係の絆を深めてきた。

 そんな中、花蓮市の中琉紀念公園と与那国町の嶋仲公民館にて10月28日、同時中継の形で姉妹都市協定40周年記念式典を開催した。双方で泡盛の仕次ぎや40周年を記念して、制作した「約束」記念碑の除幕式などを通して、互いの絆を確かめ合った。

 記念式典で、魏嘉賢花蓮市長は「10月初旬に与那国町を訪問し、記念植樹をしたことに触れた。今後も引き続き文化や教育、スポーツ面でさらに密接な交流を図りたい」と期待を寄せた。

 糸数健一与那国町長は「双方の都市締結40周年の節目にあたり、両市町の先達者が絶え間なく努力して築き上げた成果であり、両市町の交流が今日まで続いているのも、多くの先人たちと皆さまの熱意と尽力の賜物である。今後は、これまで育んできた双方の関係を存分に活用し、両市町の更なる緊密な関係を築いていきたい」と述べた。崎元俊男町議会議長も「両市町の交流がさらに広がり、友好の絆が深まることを期待したい」と話した。

 このほか、中琉紀念公園では花蓮市民代表会・蘇美珠主席、外交部東部弁事処・胡琪斌処長が祝辞を述べた。(財)沖縄県物産振興公社台北事務所・上江洲辰徳所長が参加した。嶋仲公民館では台北駐日経済文化代表処・那覇分処の王瑞豊処長が駆けつけ、双方の長年の友好関係を祝った。

与那国側から参加した糸数健一町長(右)と崎元俊男町議会議長

中琉紀念公園で「約束」記念碑の除幕式

 当日、花蓮市は中琉紀念公園内で、40周年を記念して制作した「約束」記念碑の除幕式も執り行った。記念碑はデザイナーの張宇全氏が設計を担当し、芸術家の黄裕栄氏が制作した。両市町が相互連結する意味で、記念碑は指輪の形をしており、上部には海をイメージした飾りを嵌めてある。黄裕栄氏によると、花蓮と与那国の距離は111キロであることから、飾り物円周の直径の長さは111センチになっているという。

中琉紀念公園とは

 中琉紀念公園は、花蓮市の花蓮駅の裏手にある。沖縄市の観光名所「東南植物楽園」を創業した、花蓮出身の故李堅(日本名は大林正宗)氏が、1986年に建設した公園である。

 李氏は、日本統治時代下の花蓮で生まれ、36歳の時に沖縄に移住し、日本国籍を取得した。1968年に大林農園を創設し、70年に観光植物園の東南植物楽園を創業。沖縄で成功を収めた後、故郷に感謝の気持ちを込めて公園を建設した。「中華民国」と「琉球」から一文字ずつ取って命名したという。

戦前戦中は台湾経済圏と一体化していた与那国

 与那国と台湾は活発に交流・交易してきた歴史がある。溯ること1920年代ごろより、与那国からは鮮魚やかつお節、豚肉などが移出され、台湾からはあらゆる日用雑貨が移入された。台湾が1895年より日本統治下にあったからである。当時、村民の男女が台湾各地へ出稼ぎした者は数百人に及び、台湾銀行の紙幣が島内で流通し、経済上台湾と不離の関係にあった。沖縄より台湾経済圏とほぼ一体化していたという。時刻の表示も一時は台湾と同じ「西部標準時」を使っていた。島には約5千余人の村民が生活し、経済を営んでいた。

 1945年8月15日の終戦をもって、台湾との間に国境線が引かれた。翌46年4月の通貨経済再開により、台湾との密貿易が始まり、50年ごろまで約5年近く続いた。密貿易の最盛期ころ、島には4百人ほどの台湾人がいたという。47年に人口が1万2千人に達し、村から町に昇格した。台湾ありて、与那国あるといわれるほど、島民の生活が潤っていた経緯と歴史がある。

 その後、密貿易取り締まり強化によって、双方の関係が途絶えた。50年以降より、一年で最大5百人規模の人口流出が始まり、沖縄の本土復帰の72年は2千6百人まで減少した。その後も恒常的に人口減少が続き、花蓮市と姉妹都市締結した、82年の時は2千人前後だった。

与那国町と花蓮市の概要

 与那国町は与那国島の全体からなる。島の西端の西崎には「日本最西端の地碑」がある。石垣島と台湾島との中間点に位置し、台湾の花蓮市との距離は111キロで、石垣島の118キロよりも近い。日本の最果ての市町村で、医療、物価、流通などの様々な面で離島苦の要因となっている。

 そこで、町は国境に位置する島の地理的特性を活かし、人口減への取り組みとして、台湾との直接交易推進による活性化を模索した。台湾と古くからの友好関係を礎に、台湾の活力を呼び込む狙いから、1982年4月に台湾との交易を再開した。同10月に、町側が花蓮市に呼びかけ、町にて両市町の姉妹都市協定を結び、交易・人的交流を再開し、現在に至っている。

 花蓮市は台湾の東部に位置し、台湾最大面積を有する花蓮県の県都で、人口約10万人弱。県庁や国際空港、国際港である花蓮港を擁している。港では豊富な川砂や特産の大理石などを積み出しており、与那国や県内主要港に陸揚げされている。気候が温暖で与那国とほぼ同緯度に位置し、貨物船で建設資材などを与那国に搬入する際、5時間で往来できるという。

「近くて遠い」台湾と与那国

 与那国町は地理的には沖縄本島よりも台湾の方がはるかに近い。しかし、双方で直行便が就航してないため、花蓮市とは「近くて遠い存在」だ。

 両市町で姉妹都市締結後、節目ごとに訪問団が往来するといった儀礼交流や定期的に教育交流と修学旅行事業を実施しているほか、2012年の30周年まで、チャーター便を計6便往復させた。それも、1回は船便だ。13年以降はチャーター便が就航してないとのことだ。

 特筆するのが、06年に「国境交流特区」構想を掲げたが、日本政府がそれを否定した。07年5月、与那国町が花蓮市に連絡事務所を開所したこともあった。

 35周年の節目であった17年には、与那国島で最初に海底遺跡を発見した真謝喜八郎氏が節目を祝う「兄弟島」と題したCDを発行した。作詞も真謝氏が担当した。歌意は「黒潮で与那国と台湾の2つの島は隔てているが、台湾の花蓮と沖縄の与那国は姉妹締結から35年経て、異なる国境にあるが、兄弟のような島である。花蓮の高山と与那国の宇良部岳では、両山の高低は異なるが、双方の向上心は同じだ。互いに悠久な歴史と豊かな文化を有し、兄弟のような情誼がある。きょうの楽しい交流会を通して、過去と未来を語り合い、兄弟のようなちむぐくるを子や孫へ語り継ぎましょう」である。

 現任の魏嘉賢花蓮市長は、19年に市政府のチームを引率して、初めて与那国町を表敬訪問した。当時、真謝氏は、魏市長一行を海底遺跡へ案内したという。今年は両市町の締結40周年節目の年で、さる5月、真謝氏は「兄弟島」のCD700枚を花蓮市に寄贈した。魏市長は非常に感動し、特別に感謝状を送った。

 その他、18年2月、台湾東部で地震発生後、与那国の人々は募金活動を行い、義援金440万円余りを花蓮市に贈った。20年には、新型コロナウイルスの流行を受け、花蓮市は与那国にマスクなどの医療支援物資を贈った。姉妹都市ゆえ、両市町で災害時の助け合い精神を発揮して、絆を深めているのだ。

 なお、町では、姉妹都市締結40周年を記念して台湾映画祭を開催した。8、9、10月の第1土・日曜に、DiDi与那国交流館にて台湾映画1日ずつ、計6本を放映した。

 現在、両市町間では直行便が就航してない。「近くて遠い存在」になっている現状を打開するため、双方で高速船を就航させることを目標に掲げている。かつてのように「近くて近い存在」であるような、国境交流を目指したい、と首長らが異口同音で示した。

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