沖縄の野球人伝説① エナジック監督 石嶺和彦さん
- 2020/7/30
- エンタメ・スポーツ
2年連続パ・リーグ本塁打王・山川穂高(西武)や、2018年の最多勝投手・多和田真三郎(西武)、2017年最多勝投手・東浜巨(ソフトバンク)など、沖縄県出身の選手の活躍は、ここ10年間でグンと増えてきている。
遡ること半世紀以上、まだ沖縄が日本に返還される前の1951年、県出身プロ野球選手第1号は、東急フライヤーズに入団した金城政夫投手だ。そこから数えて100名近くのプロ野球選手を輩出している。その中の一人、石嶺和彦さん(59)は、プロ野球選手、コーチを経て、現在、エナジック硬式野球部の監督を務めている。7月28日エナジックが練習をしている具志川野球場で話を聞いた。
石嶺さんは、宮古島市下地出身のご両親のもと、6人兄弟の末っ子として生まれた。自分が生まれた時にはすでに家族で那覇に移住しており、そこで野球を始めている。
「その頃の遊びっていえば、野球しかなかったでしょ」。
当たり前のように少年野球チームに入り、捕手として野球人生がスタートした。小学生時代に沖縄県大会で準優勝を経験、その頃から注目される選手だった。豊見城高校に入学すると、野球部の監督はのちに名将と言われる栽弘義監督で、そこで猛練習に励み技術を磨いた。2年で迎えた沖縄県大会、決勝戦の相手は宮古高校。
「僕と下地投手とのバッテリー二人共に宮古出身でね、宮古高校が宮古のバッテリーに競り負けたって新聞に書かれて。宮古の人たちは悲しいのか嬉しいのかわからない状態だったみたい。実は3年生の時も決勝が宮古高校と当たって。豊見城が9回裏に1−0のサヨナラ勝ちしたの。宮古にとっては悔しいのなんのって」。
複雑な胸の内を話してくれた。
「実は3年の決勝戦で、僕は最後まで出ていないんだよね。4回の4球目に打者のファールチップが右手中指に当たって、爪が裂けたんだよ。血はダラダラでて、ベンチ裏で監督にテーピングされたけど痛くて痛くて」。
まるで昨日のことのようにそう話した。
甲子園初経験は高校2年の選抜大会。じゅうたんみたいなグラウンドだ〜って感動したそうだ。しかし「生意気な言い方だけど、甲子園は4回も行ったから`当たり前の場所‘になっていた。沖縄大会で勝つのが当然になっていたので、プレッシャーはないですか?って聞かれたけど、『負けたのは監督のせいです』って言っていた」とケロっと話す。
華やかな高校野球時代だったものの、死球で左膝を痛めたことで、将来は、社会人か大学に行って治してからプロに行こうと思っていた。しかし、熱心に声をかけてくれた阪急ブレーブスに入団。
「プロ1年目のシーズン後に手術をさせてくれたので、プロが一番正しい選択だったと思う」。
その後、打点王やベストナインを数回獲得、小さい身体で指名打者の活躍は、50代以上の沖縄県民なら、誰もが知るところである。
1980年代〜90年代にかけて、プロ野球シーズンが終了後、アメリカフロリダで「ウインターリーグ」が行われ、そこに広島や阪急から若い選手が参加していた時代があった。石嶺さんも4年連続で参加しており、広島からは津田、西田、金石といった選手が参加していた。
「パイレーツのキャンプ地で、オレンジ畑の中に野球場4面と宿舎があって。その宿舎がメジャー選手が使うところはダブルベッドに広い部屋、僕らは2段ベッドの狭い部屋。食堂もゴージャスな革の椅子とパイプ椅子。ものすごい差があって。これをみたら`絶対メジャーに行くぞ`って思うだろうね」
そう語る。
日本プロ野球の場合、1軍と2軍の差は年俸には現れていても、球場や宿舎などの差はそこまでない。
「4年間参加していると、1年目に対戦した選手がワールドシリーズに出ていたりして、すごい成長だって思った。彼らの活躍具合を計る目安は、まずはネックレスだな。ジャラジャラ太く重くなっていくんだよ。そして靴がおしゃれになって着る物も良くなる」
なるほど、あの金ピカの首元は成功の証なのだ。
「ウインターリーグは1週間に6試合、一ヶ月半くらいだったかな。外国人選手はみんな日本のコーチに売り込みにくるだよね。それとバットを交換しようぜって僕らに持ってくるんだけど、自分は折れてテーイングした使えないバット、日本選手は新品をあげたりする。日本は恵まれていると思った。この頃はメジャーに憧れるってこともなかったし、別世界の話だった。大変だったけどいい思い出だね」
若い時代をそう振り返った。
エナジック硬式野球部監督に就任したのは、野球部を立ち上げた平山司さんが石嶺さんの幼稚園からの同級生だったことから。「韓国から帰ってきた時で、タイミングが良かった。37年ぶりですよ。沖縄に帰ってくるの」。高校卒業以来の地元である。本拠地は名護。「エナジックはまだ全国大会出場がないチーム。一人一人うまくなって全国を体験させてあげたい」と言う。
「プロは野球が仕事。好きとか嫌いとか言う問題ではなく、できなければクビ。社会人は野球と業務がある。好きでやっているんだからうまくなって欲しいよね」
個人個人に適切なアドバイスを送り、考える野球を目指している。選手たちに聞くと、「選手の素質や性格を生かそうとしてくれる。環境をつくってくれる監督」「僕らは戦うセオリーはわかっているが、一人一人の技術が足らない。そこを重視してくれている」という声が上がった。
「スーパースター。親父からサインもらってこいって言われてますもん」
中にはそういう選手もいた。
沖縄が生んだ伝説の野球人石嶺和彦。入団当時の背番号55をつけて、都市対抗出場を目指し、選手と共に今日も汗を流している。
*石嶺和彦*
1961年1月生まれ。県立豊見城高校から阪急ブレーブスに入団、オリックス(球団名変更)阪神を経て引退、その後は中日、横浜、オリックス、そして韓国チームのコーチを歴任し、2016年から社会人野球チーム・エナジックの監督を務める。休みの日には名護の美しい海を愛でながら、料理をつくる。得意メニューは「大根と鶏の煮込み」。