「一秒でも早く!」空の救急救命 元機長が語る危機管理
- 2020/8/20
- 社会
大小47の有人島からなる沖縄県に不可欠なのが救急患者の緊急搬送。県の出動要請を受け、患者を搬送してきた陸上自衛隊第1混成団第101飛行隊(現・陸自第15旅団第15ヘリコプター隊)は1972年の復帰以来、今年3月で1万人(9639件)搬送を記録した。
北は奄美諸島、東は南北大東島、西は与那国、南は波照間島を網羅する。30有余年にわたり一刻一秒を争う救急患者の搬送任務に直接間接に関わってきたのは井上正利さん(62)。その経験を生かし、現在はzebra安全管理研究所を主宰し、企業向けに安全教育の指導に当たる。職務を遂行する高い倫理意識、緊迫する現場で見えたもの、職場や日常生活にもつながる危機管理について話を聞いた。
離着陸でGがかからぬよう
——この道に入ったきっかけは?
「小学5年生の時に福岡から飛行機で沖縄に来ました。その時、スチュワーデスさん(キャビンアテンダント)に『坊や、良かったらコックピットの中見せてあげようか』と案内されました。こんな世界があるのかと。大きくなったらパイロットになりたいなと」
——猛勉強、猛訓練が実りその夢を果たしました。しかし現場は常に危険と隣り合わせ。
「例えば、妊婦さんを運ぶ時は特に神経を使います。離着陸でG(重力)が掛かるので頭の向きをどこにするのか。飛行中は風の影響を受けないように心がけました」
——忘れ得ぬフライトは?
「いくつかありますが2004年、劇症肝炎の患者さんを大阪まで搬送できないかとの連絡が入りました。長距離の上に感染症だったが、空気感染はしないと分かり、第1混成団団長からの強い要請もあり、GOの判断をしました。
固定翼機LR-2・53号機で那覇空港を飛び立ち、八尾空港へ進入開始したら雲中で気流が悪く、減速気味で降下。雲中を抜けて飛行場を確認し、場周パターンに入った時は風速が45ノットも吹いていて、通常では生駒山に激突する恐れがありました。
風向風速を睨みつつ、副操縦士に旋回を速める指示をしたものの、滑走路にほぼ正対風ながら地上では35ノット近く吹いていたので、慎重にタッチダウン。救急車の待つ駐機場でエンジンを止め、ドアオープンして救急車にバトンタッチしました」
一度だけ患者の様子を見に行った
——長い緊張の連続、ミッションの完了ですね。とりわけ急を要した搬送は?
「2006年9月25日でした。ファクスから流れる患者の症状は〈外傷性頭蓋骨骨折、左下腿開放骨折、外傷性くも膜下出血〉。酸素ボンベ4本(通常1~2本、プラスα)を積み込み、宮古空港に着陸。すぐに折り返しの体勢に入りました。4歳の女の子で意識はなく、母親は出産直後で付き添いの父親は「4階から落ちた」と青ざめていました。
とにかく脳にGを掛けないため、気流が悪いなか小刻みに揺れるのを操縦桿に圧を掛け、揺らさないようにしました。那覇空港が近づくと「患者の容体が極めて悪い」とコール、管制も後続の旅客機に減速を指示し、優先的に着陸できました。『管制官ありがとう! LR19号機よく頑張った!』と心の中で叫びながら、救急車に女の子を引き継ぎました」
——井上さんにも娘さんがいますよね。
「娘が交通事故に遭った時とダブって、視界が曇るのをこらえながら操縦しました。その後が気になって3日後に入院先の病院を私服で訪ねてみました。父親は私の顔を見ると涙を流し、『後遺症は残るが一命は取り留めた』と抱き合いました。搬送した患者を見に行ったのは、後にも先にもこれ一度だけです」
——仲間が遭難事故に巻き込まれたことも?
「1990年2月17日深夜のことでした。機長:伊久良健二、副操縦士:上野博信、機上整備員:新崎神一、南部徳洲会病院医師:知花哲の4人が搭乗し、午前1時20分離陸。宮古空港に向かったLR-1・12号機は、同50分頃何らかの異常を発生し海上で消息を絶ちました。乗員も機体も見つからない中で、新崎神一君の奥さんとお母さんは、どこかで生きているのではと、ユタ(霊能者)に一縷の望みを託したところ、ユタの託宣は『神一のマブイ(魂)は石垣島を漂っている』でした。
果たして、石垣島へ隊員を派遣してみると、海岸に新崎君のヘルメットが打ち上げられていました。黒潮の流れから考えるとありえないことでした。元々ユタなんてと思っていましたが、その時ばかりは本物のユタもいるものだと感心した次第です」
何のための救急搬送なのか、考えて
——常に死と隣り合わせであることを痛感させられます。行政への注文も?
「救急外来の病院は持ち回りです。その病院から担当医師はタクシーで飛行場に駆けつけます。いくら混んでいてもです。せめてパトカーで先導するか、できればパトカーを担当医師のいる病院で待機させてほしいです。何のための、誰のための救急搬送なのか、行政には考えてほしいです」
——そんな状況もあって「zebra安全管理研究所」を設立した。
「救急救命の任にあった30有余年、なぜ事故が起きるのか、事故が起きる“連鎖”が見えてきました。ヒヤリハットで知られる『ハインリッヒの法則』というのがあります。
〈ヒヤリとするような事故300:軽微な事故29:重大な事故1〉
重大な事故の陰に300のヒヤリ、29のハットが潜んでいる。逆に言えば、軽微な事故で気付けば重大な事故に至らず、ヒヤリの段階で気付けば軽微な事故に至らずに済むというもので、ヒヤリをハザードとして受け止める。企業活動だけでなく、我々の日常生活においても、安全に対する意識を持つことが一番の防衛策です」
——最後に、ラストフライトについて聞かせてください。
「2010年2月17日。慰霊のためのフライトでした。VMC(操縦士が目視により自分の判断で飛行できる気象状態)を維持できなければ、那覇空港に引き返すことを条件にした離陸でした。昼夜と違いはあるが、20年前とほぼ同じ気象条件です。雲の状況は低層、中層、高層と3層あり、中間の空いた650フィートを選択しました。
宮古北東海上で500フィートでの風向風速は北東32~35ノット。かなり揺れると予測して降下を開始したが、揺れるどころかピタッと止み、旋回を始めると同時に3層もある雲の中から垂直に太陽の光が降り注ぎ、海面の一隅を照らしていました。
LR-1・12号機が消息を絶った地点です。同乗した井久良夫人、上野夫人、新崎夫人、知花医師両親、菱川OBは『不思議なことがあるものだ。私たちが来ることを分かって会いに来たんだ』と顔を見合わせ、そして手を合わせていました」