30年前、沖縄から中国や台湾への留学は(前)

 

 中華圏、とりわけ台湾への留学を希望する若者が増えた(詳しくは、<「時代は東京じゃない、台湾」コロナ禍で“逆に有利”な留学事情>https://hubokinawa.jp/archives/12331を参照)。

 今でこそ気軽に留学できるようになったが、30年以上前の1980年代から90年代にかけて沖縄から台湾や中国への留学はどうだったのか。台湾はまだ戒厳令が続き政情不安もあり、中国は中国で外国人と中国人の接触が限られるなど、ハードルは高かった。円も今ほど強くはなかった。

 台湾台北と中国北京に留学した経験を持つ山田透さん(仮名・那覇市出身・自営業・50代)と、四川大学で本科(4年制)を卒業後、北京大に国費留学した経験を持つ川田淳史さん(仮名・本島南部出身・物流・50代)に当時の留学事情について話を聞いた。

本土よりも中国の方が文化的に近さを感じて

――まず留学した動機から聞かせてください。

山田「私は親が貿易の仕事をしていて、これからは中国の時代が来るだろうと、沖縄を拠点に中国語を仕事に生かせないかと考え、まず台湾に語学研修で行きました。2年半ほど滞在したのですが、高校ではバスケットばかりだったのですが、先輩らの影響で人生で初めて勉強して(笑)、中国大陸にも興味を持ち始めました。留学派遣団体の面接は東京で受けましたが、中国語レベルは問題なしと見なされて、なんと北京大に決まったんです」

川田「高校卒業後は県外に出て外から沖縄を見てみようとずっと思っていました。九州の大学に進学したのですが、そこには中国からの留学生もいて、日本語の授業についていけるのかなと見ていたのですが、あちらから来るならこちらからも行ってみようと。漠然とですが、本土よりも中国の方が文化的にも近さを感じていました。そこで、親に『行っていいか』と聞いたら『ああ、行って来いよ』と。

 母親が日中交流団のツアーに参加し、確か『中国画報』を購読していて中国が身近にありました。北京や上海ではなく日本人のいないところ、さらに中学の頃から読んでいた『三国志』の影響もあって第一志望四川大、第二志望四川大、第三志望四川大に決めました(笑)。沖縄を発ったのが1987年9月7日です。自分の分岐点なのでよく覚えています」

カラオケのデュエットで

――台湾でのキャンパスライフは?

山田「仕送りはあったんですけど学費、家賃、食費で消えるので、先輩に紹介してもらい、日本企業駐在員の子弟の家庭教師をして小遣いを稼ぎ、歌が好きだったのでその金でカラオケに行き、デュエットしました(笑)。歌のフレーズが授業にも出てくるので、こういうふうに使えるんだと自信を深めました」

――デュエットとは、女性キャストのいる店?

山田「そうじゃないと語学は覚えられないんです(笑)。お店のママは、留学生なのでお金がないと分かっているから、チャージ代300元を払うとその金を差し出し、『コンビニで好きな酒を買い、袋に入れて持ってきなさい』と。渡したら『今日はこれを飲みなさい』と。市場のおじちゃん、おばちゃん、カラオケ店のママ含めとても助けられました」

台湾師範大学

――古き良き時代ですね。恩返ししなきゃ。肝心の授業は?

山田「台湾師範大の授業は午前だったので午後はほとんどの学生がアルバイトしていました。当時、余裕があって来ている学生はいませんでしたから。日本円は今ほど高くなかったんです。日本人は全体で百人弱、沖縄からは3人でした。本科にはもっといたと思います」

――県人会で集まる機会もあったのですか。

山田「中琉文化協会の方治先生(〈沖縄の恩人 方治氏にみる台湾との特別な繋がり〉https://hubokinawa.jp/archives/5891)から招集がかかった時は、本科生含め約30人集まりました。あの頃は方治先生が身元引受人となって渡台したのがほとんどで、その最後の年の留学生なんです。1986年でした」

――四川省成都でのキャンパスライフは?

川田「当時、交通手段は2両連結のトロリーバスしかないので、まずは自転車です。タクシーなんて高くて乗れません。外国製は高く、安い中国製はよく故障もしました。四川は『三国志』ゆかりの史跡が多く遠出もしました。カラオケもよいですが(笑)、街に出てリアル中国にどっぷり浸かりたかった。当初、四川語は聞き取れなかったが、半年経つと聞けるようになりました」

成都だけでも東西南北で違う

――授業の中国語と街中の四川語、そのギャップにどう対応したのですか。

川田「先輩に勧められ標準語は中央電視台(CCTV)、四川語は地元の成都広播電視台(CDRTV)をよく見ました。録画なんてそもそもビデオを持っている留学生はいませんでした。
 一口に四川語と言っても成都でも南北東西で違うし、重慶とも全然違います。教員含めて標準語しゃべっている人はいませんでした。だから寝ていても『ア、ウ、オ』と口を動かしていました(笑)」

成都中心部の展覧会館前で

――四川語もしゃべれるんですね。

川田「習ったわけじゃないけどしゃべれます。ただ四川人の妻からは『下手くそだからやめてくれる?』と言われています。でも言語っておもしろいですよね。沖縄だけでも山原、中部、糸満、さらに宮古、八重山諸島、与那国……と島々でこんなに違うのに、より広い中国ならなおさらです。大連、青島、北京、上海、成都と5都市住んでいるので、メンタリティー含めその違いたるや……」

山田「私は最初に台湾で勉強したので、北京大では『南方人か?』と聞かれました。でも通じるからいいだろうと、あえて直そうとはせずにずっと台湾仕込みを通しました。東京に行っても沖縄標準語?で通す人もいますからね」

――中国で学んだ人が台湾で中国語を使うと違和感をもたれますよね。大陸の中国語は上げ下げが強すぎてきつい、怒っている、キザだと見られているようです。

川田「大阪で東京弁を使うのに近いですね。『何ゆうてんねん』『何すかしてんねん』ってね(笑)。けっして悪気はないんですが」

――四川ではトータルで7年学んだそうですね。

川田「62名のクラスメートがいましたが、十数名が大学教授を務めていて、そのうちの2名が中国でも飛びぬけて凄いんです。中国言文学の大家で漢字を作り、読み方を確定させる立場にいます。またモンゴル人留学生は現在同国の将棋協会会長を務めていて、羽生善治氏とも交流があるようです。沖縄から来ていた同級生も外国人学校の校長や高級飲食店の経営者らがいます。当時のクラスメートはもう多士済々で、各界で活躍していて自分の誇りであり財産になっています」               

(後編に続く)

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友寄 貞丸

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伊江村出身。1990年から主に中国、台湾の取材執筆活動を続ける。2014年11月Uターン。著書に『雲南哀楽紀行』(愛育社)など。国境を越えても一線を越えない旅と取材を信条とする。

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