沖縄の恩人 方治氏にみる台湾との特別な繋がり

 

 恩納村の西海岸に面した前兼久でバスを降り、国道58号から細い道を分け入り上って行くと、小高い丘に大理石でできたひときわ大きな顕彰碑と銅像が立つ。眼下に前兼久漁港を望み、北寄りに沖縄トロピカルリゾートの老舗ムーンビーチホテルが建つ。

 國場組が土地を提供し募金を集めて1983年10月10日に建立され、2018年5月に補修工事が施された。大理石には「中華民国 中琉文化經濟協會 理事長方治先生閣下」の揮毫が刻印されている。傍らには沖縄側のカウンターパートである「中琉協会」の歴代会長や政財界要人が「琉球之友」として名前が並ぶ。稲嶺一郎、西銘順二、國場幸昌、宮城仁四郎、國場幸太郎、大城鎌吉ら錚々たる顔ぶれだ。

 安徽省出身の方治氏(1896~1989)は、蒋介石の国民政府(以下、国府)で総統府国策顧問、中国大陸救済総会副理事、国民大会代表、国民党中央評議委員、中華民国総統府資政(最高顧問に相当)などの要職を歴任した。

 中琉文化経済協会が創設された背景には第二次世界大戦後の国際情勢が絡んでいる。国府は沖縄の日本復帰には反対する立場を取り、沖縄との関係強化を図る手立てを模索していた。台湾は、米国の信託統治下にある琉球政府とは通常の外交関係を持つことはできず、民間交流の体裁を取る形で1958年3月10日に創設されたのが中琉文化経済協会だ。蒋介石の命を受け、方治氏が初代理事長に就任する。

知られざる台湾留学

 設立当初は方治氏ら協会幹部と沖縄の政財界の要人が相互に訪問するレベルだった。しかし62年、宮城仁四郎氏の経営する琉球殖産へ農業技術の導入を目的に台湾から37名のパイナップル缶詰工員をテストケースで受け入れ、米国の制約を受けながら、以後サトウキビ収穫の援農隊を含め、72年の本土復帰まで工員の派遣事業が続くことになった。殊にパイン缶詰工場では、台湾工員1人に対し沖縄工員5人分の仕事量をこなし作業効率向上につながったという(八尾祥平氏「戦後における台湾から「琉球」への技術者・労働者派遣事業について」)。

 労働者の派遣事業の他に、方治氏が力を入れたのが沖縄からの留学生受け入れ事業だ。元県知事の故・大田昌秀氏を始めとする“米留組”がよく知られているのとは裏腹に、台湾への留学はあまり知られていない。

 方治氏の命日にあたる3月28日を控え毎年、顕彰碑と銅像を清める団体がある。台湾留学経験者で作る「華思会」のメンバーだ。会員には研究者、医師、元団体職員、経営者らが名を連ねる。

 どんよりした21日の日曜日、軍手をして鎌やほうきを手に各自が持ち場に就いた。ある者は狭い急な階段に積もった落ち葉を取り除き、ある者は両脇から伸びたアダン(タコノキ科)の葉と太い枝を切り払う。

4月から琉球華僑総会の会長に就任する江夏禄栄さんは、銅像に染み付いた鳥の糞の跡を丹念に拭き取るのに余念がない。記念碑脇の広場はすっかりきれいになっていた。会員の山川宗雄さんが数日前に来て、背丈より伸びたススキを草刈り機で刈り取っていたのだ。

 作業を終えて、沖縄の清明節に墓前で行うのと同様、各自が持ち寄ったおにぎりやだし巻き卵、いなむどぅち(白味噌仕立ての具沢山の吸い物)などを堪能した。新型コロナの終息から菅政権の終焉、緊迫する尖閣諸島情勢……話題は尽きない。

 話題はおのずと留学時代にさかのぼる。「当初は中琉協会の推薦がなければ留学できなかったのが、推薦がなくても沖縄の学生であれば(身元保証人を)引き受けてくれる懐の広さを方治先生は持っていました。階段がきつくなったのかどうか知らないが(笑)、最近は一番お世話になった世代があまり(清掃に)来ないので寂しいです」(華思会長・稲福隆さん)

「琉球は琉球であって、日本とは異なる」

 『琉球王国』(講談社メチエ)などの著書があり、名桜大学大学院で院生を指導する赤嶺守教授は、数カ月に一度の割合で沖縄留学生を招いて開く食事会で、方治氏が強調していた言葉が忘れられない。

 「君たちは『日本』と言わずに『琉球』から来たと言いなさい。琉球は琉球であって、日本とは異なる。琉球は独立すべきであり、日本と一緒になってはいけません」

 稲福会長もこれに同調する。

「そうそう、よく言っていました。しかし当時は『内心日本人だよ』という思いが強く、独立と言われてもピンときませんでした。しかし現在の日本政府と沖縄の関係を考えると、今となってはそれが良かったのかなと思ったりもします。方治先生は先見の明があったんですね」

 さて毎年の清掃作業を海外から見守る人がいる。ニューヨーク在住で方治氏の子息の方光虎さんだ。12月1日で91歳になる。親交のある華思会事務局長の大田哲さんはこう話す。

 「方治氏が亡くなってからここ二十数年、台湾を経由して毎年、命日の前に沖縄に来てここで手を合わせています。『お父さん、来たよ』と。3年前に大病を患い来られなくなったのが残念です。今日ここで撮った写真を送信します。喜びますよ」

 その日のうちに方光虎氏から返信があった。

 「ごきげんよう。写真を送っていただき本当に嬉しいです。多くの華思会の会員及び琉中協会の皆さんが、父の墓参りのためにご苦労なさり、作業後には墓前で休みながら食事を楽しまれたこと。皆さまに心から感謝します。お疲れさまでした」

 墓前とあるのは、顕彰碑の裏手に台湾から分骨していることを表す。この地も方治氏が生前、自ら沖縄を巡って探して決めた場所だ。大田事務局長が力を込めて話す。

 「方治先生が沖縄を第二の故郷と呼んでいた証しでしょう。沖縄では方治先生の功績が薄れていて、名前そのものを知らない人たちが多いです。沖縄に多大な貢献をした証しとして方治先生の名前を冠した弁論大会やイベントなどを企画し、その名を後世に残すことが我々の使命と思っています」

一衣帯水の恩人を忘れてはならない

 2018年の補修工事後に開かれた「偲ぶ会」で献花した台北駐日経済文化代表処那覇分処の蘇啓誠処長(故人)は、「琉球をこよなく愛し、産業育成に心血を注いだ人だった」と称えている。中琉協会の石嶺伝一郎会長は、「方治先生の功績を長く語り継ぎ、沖縄と台湾のさらなる発展を祈る」と誓った。

 陰に陽に台湾と沖縄の文化経済交流を図り、戦後の沖縄復興に尽力した一衣帯水の恩人を忘れてはいけない。


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