「屋良覚書」って何? 下地島空港の軍事利用に“待った”をかける要石

 
下地島空港

 今年1月、在沖米海兵隊が人道支援・災害救援を目的とした訓練のため宮古島市にある下地島空港の使用を沖縄県に届け出たが、沖縄県が使用自粛を要請し、訓練の実施は見送られた。玉城デニー知事は定例会見の中で「緊急時以外の米軍による民間の港湾や空港の使用は自粛を求めていく」と述べ、その根拠として“下地島空港は民間機の利用に限る”という趣旨の「屋良覚書」と「西銘確認書」を挙げた。
 この一件を巡ってにわかに見かけるようになった「屋良覚書」とはどんなものなのか、政府が「防衛力強化」を強調している昨今の状況にも留意しつつあらためて見ていきたい。

「民間航空以外の目的に使用させる意思はない」

 屋良覚書とは1971年に琉球政府(沖縄県)と日本政府が交わした文書で、下地島空港の使用について主に以下のような内容を確認したものだ。(※当時の表記は下地島「飛行場」だが、便宜上、下地島「空港」で統一する)

①下地島空港は琉球政府が所有・管理するもので、使用方法は管理者の琉球政府が決定する。

②運輸省(国交省)としては下地島空港を民間航空訓練と民間航空以外の目的に使用させる意思はない。

③また、運輸省が上記以外の目的に使用させることを琉球政府に命令する法令上の根拠を有しない。

 当時、琉球政府の行政主席だった屋良朝苗氏が国との間で交わした覚書のため「屋良」覚書という通称になった。下地島空港は国内唯一のジェット機パイロット訓練飛行場として72年に建設が着工。屋良覚書は米施政権下の沖縄で、建設前から米軍や自衛隊による軍事利用が懸念されていたことから、運用開始に先立って民間機以外は使用しないことを確認した。

 また、屋良覚書に付随して言及されている「西銘確認書」は1979年年に当時知事だった西銘順治氏が下地島空港の運営方針について「人命救助、緊急避難等特にやむを得ない事情のある場合を除いて、民間航空機に使用させる」との確認を政府にとったものだ。これに対して運輸省からは「下地島空港の運営方針は、第一義的には設置管理者たる沖縄県が決める問題である」という回答が成されている。

 玉城知事は、屋良覚書と西銘確認書の解釈について「県と政府間で独自の協定、それに準ずるような確認が行われているもの」という認識を示しており、沖縄県としても覚書は現在も有効で、民間機以外の使用は認めないという姿勢をこれまで通り堅持している。

パイロット訓練飛行場として設置、現在はLCCも就航

 そもそも下地島空港はどんな空港なのだろうか。所在は沖縄県宮古島市の下地島、訓練飛行場として開設された下地島空港は、3,000m✕60mの滑走路を持つ。建設に至る経緯についても端的にみてみよう。

 1960年代後半、航空機での大量輸送に対応するため日本国内ではパイロット訓練飛行場の整備が急務だった。日本国内でも候補地が挙がったものの正式決定に至らず、68年に当時の運輸省が未だ米施政権下にあった沖縄県内の離島を視察した結果、候補地を下地島に選定した。

 69年に伊良部村議会(当時)が訓練飛行場誘致を議決したが、軍事利用を懸念した地元住民からの反発もあり、賛成派と反対派で激しい対立が繰り広げられた。これを受けて琉球政府は国に1度は空港建設の撤回を要請して中止が発表されたものの、最終的には国が下地島の土地を買い上げることで誘致が決定。屋良覚書はその際に交わされた覚書だった。

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