炭疽菌騒動から「危機管理」を考える
- 2020/7/8
- 政治
私は長年保健所勤めであった。職歴の最後には県の福祉保健部長も務めた。その間、当然のことながら危機管理上の様々なことがあった。その中から十数年前に人々を震撼させた、今ではほとんどの人が忘れた炭疽菌パニックというのがあった。今回その経験を紹介したい。
既に19年もの時が経過しているが、9.11にニューヨークで起きた同時多発テロで世界中が騒然となっているさなか、米国で白い粉が入った封書が報道機関や有力議員のもとに送られた。その白い粉を吸い込んだ人が数日後、次々と倒れ、数人の方が死亡したという事件があった。
白い粉は炭素菌の胞子がパウダー化されたものであった。米国と関連の深いわが国においても、同様なテロ攻撃が行なわれるのではという不安が国民に広がり、全国各地で“白い粉事件”が発生した。わが国の現場では警察と保健所が対応にあたった。
普段なら単なるごみと扱われたであろう白っぽい粉を目にした人々は怯え、機動隊が出動して次亜塩素酸Na製剤による消毒を行なうなどの事案が全国各地で発生した。航空機や新幹線にも影響が出たというニュースも聞いた。
その最中、全国で報道されることはなかったが沖縄でも同様の事案が発生した。私は当時、那覇の保健所勤務であった。今回はその時に経験した中央郵便局と那覇空港での顛末を紹介したい。
外国からの郵便に白い粉
私のもとに「中央郵便局で取り扱っている外国貨物郵便の中に、不審な白い粉が見つかったので至急来てもらいたい。」との連絡があった。とりあえず用意されていた防護服とN95マスクをもって、同僚職員と一緒に現場に駆けつた。
現場は私が想像していたよりもかなり物々しい様子であった。外には機動隊が化学兵器対応の装備着用で待機していて、“物”が置かれている部屋の周囲は、立ち入り禁止と書かれた警察のテープで囲われていた。私たちが到着を告げると、現場の郵便局員だけでなく、郵政省の沖縄にいるトップの方々や、緊急出動している警察関係者に取り囲まれた。
まず当事者から事情を聞いた。「外国からの貨物郵便なので、麻薬チェックで開封すると、箱の中は白い粉がいっぱいであり、変な脅迫文みたいなものがあった。」とのことであった。郵便局のマニュアルどおりに現物を決められた部屋に運び警察と保健所に連絡したとのことであった。
私はまず、受取人ははっきりしているか聞いた。南太平洋諸島から来たJICAの研修生であるとのこと。しかし、本人は外出中で連絡が取れてないとのことであった。
関係者から事情を聞くと、私はすぐ問題なさそうであると判断できた。機動隊は引き上げてもらった。念のため型どおり、検体(白い粉)を採取し衛生研究所に検査を依頼することにした。PCR検査は結果が出るまで24時間程度必要である。関係者にその旨伝えると、全く予期しない質問が来た。内容を箇条書きにすると以下のとおりである。
1.安全なものなのかどうか保健所から適切な指示をもらいたい
2.安全が確保できるまで、郵便配送の仕分け作業全部をとめており、数時間以内に作業再開の指示ができなければ、速達便等で約束の期日に配達できなくて相当の社会問題となる
3.本物の炭素菌であったならば、施設内の郵便物すべてを処分しなければならないが、郵便物に関する法律では、郵便物を安全に送り届ける義務があり、それとの兼ね合いをどうするか保健所からの指示・命令を待たなければならない
極端な内容に最初、冗談かと思った。しかし、どの方々も真剣である。私が「皆さんはどうお考えなのですか?」と聞いても、「保健所の指示を待ちたい」と言うばかりで、責任ある発言をするそぶりも見せない。「ホンマカイナー」の思いもあったが、私は、苦笑いしながら「大丈夫」宣言をした。その根拠は次の飛行場閉鎖問題とも関連するので、後で説明する。
「着陸許可を出せない」
そんなことがあった数日後、今度は「那覇空港の国際線ターミナルで白い粉が発見された。」という連絡があった。駆けつけるとやはり機動隊が出動していて、今度は既に次亜塩素酸Na液で広範囲に消毒されていた。隅々まで消毒液がまかれており、もはやどこにも白い粉は見当たらない状態であった。同じように、警察と、飛行場のビル管理責任者、税関の責任者、出入国管理の責任者に囲まれた。警察以外の方々はどなたも国から来た“お偉いさん”のようあった。
私が「消毒も終わっているようですし、白い粉も残っていないので、検査もできません。それでは失礼します」と話すと、彼らから全く予期しない問いかけがなされた。「保健所は安全宣言をしてくれるのですね。我々としては床の消毒は終わっていますが、ごらんのとおり機械等の場所は消毒できないでいます。万一、本物の炭素菌なら大変なことになります。それに、一時間後に台湾から飛行機が到着することになっています。間も無く着陸の許可の連絡が管制に入ります。この施設が安全でなければ、着陸を不許可にして福岡に行くよう指示しなければなりません。」
私は冗談かと思ったが、皆さんいたって真面目な顔なので、あえて少し茶化しぎみにこう聞いてみた。
「白い粉が本物であるかもといった何か心にひっかかることでもあるんですかー?」
すると、彼らは無表情にこう答えるばかりであった。
「分かりません。安全であるかどうかは、保健所に判断してもらうようにとの本省からの指示です」
空港施設の管理責任はどこにあるのか話し合ったが、らちがあかないので以下の理由を提示して安全宣言をした。
1.パウダー化した炭素菌は、相当高度な生物兵器として精製されるもので、素人で簡単に手に入るものではない。
2.その製剤を使ってテロを計画できる人がいると仮定しても、それを使用するには自身の安全に関し相当の工夫がなされるはずである。今回のように無造作に散乱するような形で使用されることは考えにくい。
3.自爆テロのようなものが全く無いとはいいませんが、あったとしてもそれをするだけの価値のある対象に行なうと思われる。今回の場合、全員が普通の市民であり、命がけで攻撃する価値のある政府要人等はいない
「今回の粉は炭素菌である蓋然性は全くと言ってよいほど無いと考えます。よって、施設の使用を禁止する必要はありません」
白い粉をまぶした大福もちを食べている家族がいた
そう断定的に答えると、されまでとはうって変わってみな安堵した表情になった。それでも「保健所は大丈夫と判断したんですね」そうだめを押す人もいたので、「大丈夫です」と答えると、一人が何食わぬ顔でこう話すではないか。
「現場の職員によれば、通過客の中に白い粉をまぶした大福もちのようなお菓子を食べている家族がいた。そういう目撃談もあります」
私は少しあきれてしまった。
先に話した郵便物騒動は結局、南太平洋の島々では好まれている椰子の実を使った、手製のガムを作るための粉を、研修生の奥さんが送ってきたものだった。脅迫状かと疑われた文字が書かれた紙は、彼女からの「寂しいから早く帰ってきて」といった内容の英語のラブレターだったとのことである。
結果論から言うと、これらのことは今となっては程度の低い笑い話でしかない。しかし、よくよく考えると危機管理を考える上でかなり深刻な本質的問題が潜んでいるのだ。