00年代沖縄インディーズブーム再考(上)ヒューマンステージと共に
- 2020/12/18
- エンタメ・スポーツ
2020年は沖縄の音楽シーンにとって大きな出来事があった。26年間も沖縄のライブシーンを支えてきた老舗ライブハウス「宜野湾HUMAN STAGE(ヒューマンステージ)」の閉店だ。長らく一線でミュージシャンを支えてきた元代表の山田義和さんと一緒に、ヒューマンステージの歴史も交えながら、主に2000年代前半の「沖縄インディーズブーム」を紐解く。
【関連記事】00年代沖縄インディーズブーム再考(下)ヒューマンステージと共に
県内外のバンドが集うみんなの思い出の地
「ヒューマン」の愛称で知られるヒューマンステージは、沖縄県内の高校生バンドからMONGOL800のような全国的に名が知れたバンドまで、多くのバンドやミュージシャンの思い出が詰まった“ハコ”だ。県外のバンドも全国ツアーの一環で沖縄に来る際にはヒューマンステージを利用することも多く、県内のバンドと対バン(音楽イベントでの共演)をして交流を深めてきた。キャパシティは約200人ほどであろうか。そのステージとフロアとの近さが、ライブハウスの魅力そのものであり、会場のどこにいても演者と観客の一体感を生んでいた。
ヒューマンステージのあった宜野湾市長田は、琉球大学や沖縄国際大学が近く、学生街の雰囲気が色濃くある一方で、ヒューマンステージと、もう1つ別のライブハウス「K-mind」(2012年閉店)が同じ国道330号沿いに300-400m離れて営業しており、ライブ好きの人やバンドマンにとっては「ライブハウスの街」という認識もされていた。
今のように音楽サブスクのサービスやYouTubeでの音楽視聴が一般的ではない時代、レンタル店で借りたCDや友人からの口コミで知ったバンドを実際に観ることができたのが、こういったライブハウスだった。「世間一般では有名人ではないけど、バンド好きにとっては超有名人」的な人が、目の前にいた。当時高校生だった筆者は、土曜日のライブの思い出を翌週の水曜日あたりまで引きずっていたものだった。
「1年だけ」と言いつつも
具志川市(現うるま市具志川)出身の山田さんは、就職や結婚を機に宜野湾市長田に移り住んできた。当時から実はヒューマンステージは存在していた。あるバンドのメンバーがオーナーを務めていた。「飛遊人」というバンド名で、ヒューマンと読ませたことに由来する。このバンドに28年前、山田さんがベーシストとして加入したのが契機となった。当時のヒューマンステージは、毎日営業しているスタイルではなく、日によって開いたり閉まったり。そこで店長として白羽の矢が立ったのが、山田さんだった。
「なんとかなるだろう、という思いでした。妻には『一度はライブハウスの営業をやってみたい。やらないと一生後悔すると思う』と言って理解してもらいました。『1年だけさせて』と頼みました」。その日には26年間の歴史を積み重ねるとは、本人でさえ思っていなかった。
2極化していた高校生バンド「みんなリンダリンダ」
未経験から始めた山田さんだったが、幸いにも「周りに教えてくれる先輩がたくさんいた」。ケーブルの作り方やミキサーの使い方まで学ばせてもらい、音のプロ・山田さんが仕上がっていった。
2000年前後当時の高校生バンドシーンは、2極化されていたという。
「当時の高校生は、黒服系(黒系の衣装に身を包んだビジュアル系バンド)とブルーハーツ系の2択でしたね。どっちかでした」と回想する。